全面的な進撃をしよう

(S) 01/01/1968


From Today's World Japan 517 and 518


一九六八年一月一日(第一回「真の神の日」)

韓国前本部教会

文鮮明先生み言選集第十九巻


天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」のみ言の中に、「第四十四回『真の神の日の訓読のみ言と神様王権即位式のみ言を添付し、先生の全体生涯路程を中心とする教材·教本を代表した全体のみ言を続けて伝えます」という一文があります。第四十四回「真の神の日」(天基二年天暦一月一日=二0-1年陽暦二月三日)に訓読された一み言とは、第一回「真の神の日」(一九六八年一月一日)に語られたみ言「全面的な進撃をしよう」です。このみ言の全文は文鮮 明先生み言選集第十九巻に収められています。以下はそのみ言を翻訳し整理したものです。今回はその前編を紹介します。

(文責·編集部)



第一次七年路程が終わったら、第二次七年路程を再び行かなければならないというみ言は何度も聞いたはずです。


今この瞬間は、今まで待ち焦がれてきた所望を遂げるために血のにじむ闘いを1してきた第一次七年路程とは違い、時代的な違いによって、使命的な分担において格段に違った様相を帯びる第二次七年路程を出発する時です。


第一次七年路程についての悔恨


ここに集まった我々はすでにみ旨を知った人々です。み旨のために生命をささげることを覚悟し、闘いの路程を歩んできた人々です。それゆえ皆さんは今年も神様の血と肉の因縁をもって、この時代的な使命に責任を負うと神様の前で誓った自分たちであることをさらに自覚しなければなりません。また、過去のことを教訓として、み旨の前に新しく決意する

心が大きくならなければなりません。


我々はこの七年路程に、六千年の罪悪歴史を終結させようとしてこられた神様のみ旨があったことを知っています。また、二千年前のイエス様以後、キリスト教が血を流しながら殉教の祭壇を築いてきて残された摂理の因縁を終結させるために苦労してきたという事実も知っています。


イエス様と聖霊はもちろんのこと、古来よりみ旨のためにこの地に来ては一時の恨を残したままサタン世界を心でのみ踏みつけ、み旨を立てて誓いながら犠牲の立場、あるいは死の立場に進んでいった幾多の先知先烈たちがいるということも知っています。彼らは皆、この七年の大患難を最後の決定的な時期として待望してきたのです。


このように歴史の要求は一時代と一基点に集中し、サタンと神様との天下分け目の決戦を提示してきました。それでは、この闘いを集結させる使命に責任を負って出てこなければならない責任者が誰かというと、この地上に住む多くの人々ではありません。韓国に住む三千万民族全部でもありません。彼らが誰かということは、世界の人類も知らず、この大韓民国の三千万民族も知りません。


この民族の中から追われ、追い回されてきた統一の群れが、これほど重大な責任を負っているという事実を、世の中の人々は知りません。しかし神様はご存じなので、今まで我々と共に険しい道を開拓なさり、同調してくださるのです。


このような事実を考えるとき、これは我々だけが持った特権であり、 我々だけが持つことができる誇りです。歴史過程において、これを感じることができる甲斐ある期間が七年路程だったという事実を、我々はよく知っています。


このような七年路程だったので、先生は皆さん各自が神様の前に忠孝の道理を尽くさなければならないということを、 時間があるたびに強調してきたのです。我々は忠孝の道理を立てるとき、栄光の勝利の立場、あるいは華やかな立場で忠孝の道理を立てようとは約束していません。血と涙と死が交差する立場、誰も願わない最後の峠道で七年路程を行こうと誓っ

てきたのです。涙が出れば、もっと凄惨(せいさん)な涙を流そうと覚悟し、死の道に直面させられれば、かつて誰一人抱くことができなかった歴史的な恨みを抱こうと覚悟しながら七年を手探りで進んできましたが、その道を回顧してみると、涙のにじむ事情が多かったのです。


他人には到底理解できない道を我々は歩いてきました。しかし、我々が受けてきた悲しみよりは、我々を導いてくださりながら内外の道を開拓するために苦労してこられた神様の悲しみのほうがもっと大きいという事実を考えるとき、過去の責任を果たし切れなかった我々の立場がどれほど恥ずかしく畏れ多い立場であるかを、もう一度感じなければなりません。


だからといって、神様を悲しませてきた事実によって、いまだ、この民族全体が神様の前に導かれてきたわけではありませんし、ましてや、この世界が天の圏内に入ってくるようになったわけではありません。


それゆえ我々はこの時点でもう一度、襟を正して、この民族と世界人類の前に再び第二次七年路程を設定しなければなりません。こう考えると、皆さんは再び神様を奉じ侍って苦労の道を再出発しなければならない立場にいるのです。これが悔しさと無念さと慣怒の事実であることを知らなければなりません。


六千年の苦労の道も長くて戦煙するほど残酷な道でしたが、今日、この七年路程の倒れてしまうほどの蕩減の峠道で苦労してこられた神様のご苦労がさらに大きかったという事実を恥ずかしく思わなければなりません。さらには、第一次七年路程によって摂理を終結させられずに民族的な恨を持ったままで再び第二次七年路程を歩むようになった事実を、我々は厳粛な心情で悔い改めなければなりません。


これから新年には、自分ができていない責任を再度整備して、新しく始まる第二次七年路程ではお父様の前に甲斐のある祭物をささげようと、心の中で誓う皆さんになるように願う次第です。


第一次七年路程の意義


過ぎ去った第一次七年路程は、先生の二十一年路程の終局に備えるためにあったということを皆さんは知っています。過去の七年路程において皆さんは個人として参加しましたが、世界史的な意義から見ると、歴史的な数多くの人間たちを代表して参加していたのです。その期間内で皆さんがささげた精誠は決して無駄にはならないでしょう。これは千秋万代に地の

因縁として残されることであり、天上へ行っては数多くの善良な霊たちが賛辞をささげることができる基盤になるでしょう。こういう期間は地球上に二度と来ないでしょう。


正に何分か前 に過ぎ去った一九六七年でその時期が締め切られたという事実を考えさせられるときに、皆さんはみ旨のために真なる心情であらゆる至誠を尽くさなければなりません。


歴史が負っている恨を知るようになれば痛憤する事実ではありますが、それは仕方ないことであり過ぎ去った時代の事情になってしまいました。その歴史の恨を解くために三千里半島で統一の旗印を掲げてきた我々は、今まで迫害と非難の矢を受けながら歩んできました。しかし、我々は進んできた歩みをまだ止めていません。追われ、追い回されても、自分を内的

に成長させると同時に、外的に整備するにおいて怠けたりしませんでした。


それによってこれからは大韓の三千里半島のどこに行っても、統一教会が行く道を阻む者はいなくなるでしょう。いかなる銃剣をもってしても阻むことのできない基準を立てなければならないという決心が、天的な基準で見るときに、このようにものすごい勝利をもたらしてきたのです。このような条件を立てたゆえに、それを中心にして新しい歴史を創造することができたのです。


我々はこのような諸事実に対し感謝しながら、過ぎし日の辛かったその道もやり甲斐を見いだししながら受け持ってきましたが、これからは残っている内的な分野のために民族全体を懸けながら整備しなければなりません。この民族を整備して新しい世界に向けて出発しなければならない使命が皆さんにあるのであり、皆さんがこの使命を完遂するようにさせなければならない使命が先生にあるという事実を、我々皆が肝に銘じなければなりません。


それでは今年において我々はどんな道を行かなければならないのかというと、これが新年初頭から全国と全世界に散らばっている統一教会の信徒たちに勧告しなければならない課題であるのです。今年は平和を先導する全面的な攻勢に出よう、すなわち「全面的な進撃をしよう」という標語を中心として第二次七年路程を出発しようというのです。


第一次七年路程では一年目(一九六〇年)の標語は「生涯中、最大の実績を残す年となるようにしよう」でした。二年日は「父の代身者となろう」であり、三年目は「見せてあげて誇り得る者となろう」であり、その次の四年目は勝利的主管者となろう」でした。


このような一連の標語を再び考えてみるとき、その内容はどういう内容ですか?「生涯中、最大の実績を残す年となるようにしよう」というのはどういう意味ですか? 人間はサタン世界に生きているので、蕩減の因縁を備えてサタン世界の前に分別される立場に立って歴史的な全ての罪悪を湯減復帰して勝利しようということ、すなわち個人復帰をしようということです。それが人間の所望です。個人復帰をすることによって神様の息子、娘になって、神様の代わりにサタンを審判することができる権威を持った子女になろうというのです。


その次は何かというと、「見せてあげて誇り得る者となろう」です。


これは神様の子女たる姿をこの地上で実践して、実体的に見せてやろうということです。個人的に、家庭的に、民族的に、国家的に見せてやろうということです。その次には、個人から国家の段階に至るまで勝利的な主管圏を備えて勝利的な主管者になろうというもの

でした。それが七年間の目的でした。


全面的進撃のための準備


今年は「全面的な進撃をしよう」という標語を掲げて活動しなければなりません。このときに問題となるのは、どうすれば統一教会の食口全体が一人残らず、昼夜を分かたず活動できるかということです。休まずに活動するためには、どうすべきでしょうか? 先に内的整備を堅固にしなければなりません。皆さんが活動するときは目標がなければなりません。そうするためにはその目標を自ら果たすように、内的な全ての事情を整備しておかなければなりません。皆さんは教会活動をする人々なので、全面的な進撃をするためには全国の統一教会が抱えている全般的な分野における内的な整備を急がなければならないというのです。


個人の内的整備をするためには、個人の信仰を中心として見るとき、み言に対して神様の前に認められる自分自身にならなければなりません。実体においても神様の前に認められる自分自身にならなければならず、心情を中心としても多くの人々の生命に責任を負い、そこから新しい繁殖を起こすことができる能動的な力を持っていなければなりません。


それゆえ、各個人がみ旨を中心として活動するためには内的整備をしなければなりません。完全に備えて、神様がごらんになって「正しい」と言ってくださることができる基準を持たなければなりませ。そのためには 「原理」 のみ言を勉強しなければなりません。もちろん、第一次七年路程において正常な道を歩んできた統一教会の食口なら、原理試験に合格していなければならないでしょう。


皆さんはみ言に無条件についていく人になってはいけません。まずみ言を通して主体性を備えた実体、すなわちみ言の主体となり創造できる人格を備えなければなりません。


ところで、今まで統一教会で「原理」のみ言を勉強する人々を見ると、心情的基準や人格的基準を取り戻せずに、み言だけで働き動く人が多いのです。これではいけないのです。み言を学んだら、 そのみ言を自分の言葉にして吐露できなければなりません。「原理」を語るのですが、その「原理」がどこかの先生が教えてくれた「原理」としてではなく、自分の骨と肉を通じて生命の因縁を備えた立場で語らなければなりません。そういう本然の主体性を持って語ることができる人にならなくては、そのみ言に因縁づけられた人々が自分とは何の関係もなくなるというのです。それゆえ、み言を中心とした実体的な人格を完成しなければ

ならないというのです。


それでは人格を完成するためには、どうしなければならないのかというと、神様の公認を受けなければなりません。神様の公認を受けるためには、必ずサタンと対決して勝利しなければなりません。


それでは、み言によって実体的な人格を備えた後に残った問題は何かというと、サタンを屈伏させることです。それでは、サタンをどこで屈伏させるのでしょうか自分が住んでいる家や、自分が活動する職場で屈伏させるのではありません。一国の最高の死が宿る立場でサタンと最後の天下分け目の大決戦をして屈伏させなければなりません。それも、個人を讒訴するサタンではなく、国家的に讒訴するサタンを屈伏させなければなりません。そうしてこそ神様の息子、娘になることができるのです。


なぜならば、イエス様がこの地へ来られる時には個人的な立場で来られたのではなく、国家を捜し立てるために来られたためです。したがって、イエス様が残した恨を蕩減復帰しなければならない立場にいる我々は、国家的基準にいるサタンと対決している途中で十字架で亡くなられたイエス様の恨を解いてさしあげなければならなを解いてさしあげなければならないのです。そうできなければ国家的権威を代身することができる立場、すなわち復活したイエス様の実体を代身する立場に立つことができないのです。ですから、サタンを審判しうる権威を備えるためには、最高の国家的な試練の途上で全てを処理していかなければならないのです。


このような摂理の内容があったために、今まで統一教会が歩んできながら国家的に反対を受けたのです。宗教界ではもちろんのこと、家庭と社会と国家においてまで迫害を受けなくては、国家的に勝利した人格的な価値を持つことができないのです。それゆえに、神様

は我々が行く道に多くの試練があるようになさったわけです。


こういう観点から見ると、真理だけ持っていてはならないのです。それゆえ、み言を語るには真理と一体となって語らなければなりません。み言に引っ張り回されるのではなく、み言を支配しなければならないというのです。そして、神様のみ言をサタンにも、「正

しい」と公認させることができなければなりません。そのためには、み言でサタンを屈伏させることができる実証的な条件を持っていなければなりません。


内的整備をせよ


それでは、実証的な条件を持つためにはどうしなければならないかというと、サタンの侵犯は神様の心情を蹂躙するところから出発したので、サタンを屈伏させて審判することができる第一の基準は、神様の心情を復活させることです。すなわち、神様の心情を再び誘発させるところから勝利の基盤が用意されるということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ終わりの日には、み言審判、人格審判、心情審判があるのです。


そのみ言と人格と心情が審判の基準なのですが、その基準がどの段階でなければならないのかというと、アダムとエバが堕落する前の段階の基準以上の位置に上らなければなりません。そうでなければ、み言を取り戻したという立場で勝利の旗印を掲げて現れることができないのです。そのみ言と実体を成し遂げたという位置にも立つことができないのであり、また、み言の実体である神様の前に召命された者として神様の心情を受け継いだという立場に立つことができないというのです。その基準はアダムとエバが堕落する前の段階よりもっと次元の高い段階で決定されなければならないのです。


それゆえ統一教会では、完成時代の神様の心情を教えてあげるのです。アダムとエバは長成期完成級で堕落する時に神様の心情を推し量ることができませんでしたが、我々統一教会では完成時代において神様の小情を教えてきました。完成を中心とした神様のみ旨がどうであるかということを教えてきました。


それゆえ、その基準以上の位置に立たなくては、サタンがアダムとエバを堕落させたその基準を清算することができないために、皆さんがそういう立場に出ていかなければならないのです。


ところで、この世界人類について見てみると、今までそういう立場に立った人が一人もいなかったというのです。その立場に我々が出ていこうというのです。ですから、統一教会が持っているみ言は特権的なみ言です。統一教会のみ言を通した実践は特権的な実践なのです。ここで結ばれた心情の因縁は、歴史上になかった、天地を連結することができ、神様の心情とも連結されうるものであることを知らなければなりません。言い換えると、失ってしまったアダムとエバの心情基準より高い心情から新しい世界が出発しなければならないというのです。これが統一教会の信徒たちが目標としていく基準であるということを知らなけ

ればなりません。


こういう観点で見ると、皆さんは各自、内的整備を完結しなければなりません。これができているのかどうかが問題です。できていなければ、いかなる方法によってでも完結された結果の立場に立つように努力しなければなりません。


本来はこのような立場に立脚して、きょうから総進軍をしなければならないのです。しかし、内的整備ができていなくては、どんなに進軍するとしても勝利の結果をもたらすことができず、また、敗者の悲哀を免れることができないのです。それゆえに休まずに活動

しようとするなら、これを裏づけてくれることができる内的整備が必要だというのです。


目標意識を確立せよ


その次には目標意識が明確でなければなりません。内的整備がどんなに完結されたといっても、目標なしにまごまごしてはいけないのです。明らかな目標を立て、その目標が志向する道がどうであり、また、目標が成し遂げられれば、その価値がどういうものかということを確実に知らなければなりません。


すでに一九六八年から統一教会の信徒たちは全面的な前進をしなければならない状況に直面しています。一つの明らかな目標を中心として進撃しなければなりません。


これから統一教会が行かなければならない目標は宗教界になるかもしれません。統一教会は一般の既成教会を通して越えていかなければならないために、現在のキリスト教を踏み越えていかなければなりません。そして、 どうすべきかというと、大韓民国、倍達(ペダル:韓民族の別称)民族全体を神様の前に復帰しなければなりません。このような使命が我々に背負わされているということを、 皆さんは明確に知らなければなりません。


この目標を達成するために食べて寝て活動するという目標意識が徹頭徹尾、確立されていてこそ、成果を期待することができるのです。目標意識を徹頭徹尾持って、どれほど精誠を込めながら努力するのかによって成果が期待できるのです。しかし、無条件に努力しても役に立ちません。内的整備をもっと堅固にしてから精誠を込めながら努力しなければなりません。


イエス様がゲッセマネの園を越えてカルバリ山上に向かって行かれた行路を、我々は忘れてはなりません。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と祈られたイエス様と共に、寸分たりとも疑わない心で「私の思いで

はなく、お父様のみ旨のとおりになさってください」と言える心が皆さんの内心に確立されていなければなりません。


お父様のみ旨を中心として目標に向かって進むにおいては、ゴルゴタの丘を登って行かれたイエス様の心情を抱いて行かなければなりません。イエス様はユダヤの国とユダヤ教団を忘れようにも忘れることができませんでした。また、愛するダビデの子孫であるヨセフの家庭を忘れることができず、自分に従ってきた数多くの群衆を忘れることができませんでした。


このように、全ての思いを自分のためではなくイスラエルを中心としてなさってきたイエス様の心を、我々は模範としなければなりません。そのようなイエス様の心を中心として目標を遂行すれば、怨讐たちがどんなに迫害し、どんなに難しい道にぶつかっても、皆さんはその目標を遂行することができるのです。


今年からは我々が行かなければならない分野が変わりました。国家的な使命も果たさなければならず、氏族的な使命も果たさなければなりません。こういう観点から見るとき、我々が目標にしなければならないのは何なのかというと、大韓民国を神様の前に復帰することです。今、大韓民国は、共産治下の北朝鮮によって南侵の機会を狙われているという状況に置

かれています。それゆえに我々は、内外で全ての情勢に立脚して神様が願われる摂理と結びつけてこれを蕩減しておいて、そこで勝利の基準を立てなければなりません。


それに関する詳細な問題は今後、別途に指示します。


それゆえ我々は、大韓民国をどのように神様の前に復帰するのかという目標を中心として進まなければなりません。イエス様がユダヤの国を救うために命を懸けて闘ったのと同じように、我々も大韓民国を救うために命を懸けて闘わなければなりません。この国がどこに行くのかを神様を代身して凝視しながら、怨讐たちが出没する根拠地を必ずや暴かなければな

りません。しかし、この世的な方法で進んではなりません。


統一教会が取る作戦と方法は別にあります。涙と血と汗を流しながら打たれて得てきて、踏まれながら得るのが我々の作戦と方法です。その作戦の結果、我々は敗者の悲しい立場を免れたのです。皆さんはすでにこれを実践して勝利の結果をもたらした体験をしたので、こういう作戦を休まずに展開しなければなりません。時間を争って大韓民国を救うために闘っ

ていかなければなりません。そうするためには我々がしなければならない責任分野がどれほど多いのか、体が百万、千万あっても足りないということを感じなければなりません。


ですから、透徹した目的意識を持って総進軍することを皆さんが決意しなければなりません。ここで我々が肝に銘じるべきことは、イエス様がゲッツセマネの園からゴルゴタの丘まで歩む時に持たれたその懇切な心情を必ず感じなければならないということです。このように死を踏み越えていくことを決意なさったイエス様を代身することができる立場で、目標意識に徹底する人々にならなければならないのです。


敗者の悲哀をあらかじめ感じよ


もし私たちが失敗する日には、すなわち目的を達成できない日には、敗者の悲哀を免れることができないということを知らなければなりません。神様の命令を遂行するという目的に向かって進む途中で敗れ、敗者となって悲しみに遭うよりは、あらかじめ敗者になった時を想像してみようというのです。あらかじめ敗者の悲哀を感じてみようというのです。


イエス様も三年公生涯路程の最後の瞬間にゲッセマネの園、最後の恨の祈祷をささげる場で敗者の悲哀を感じていたのです。それゆえ我々は敗北した後の結果的な立場で感じるのではなく、その場へ行く前にあらかじめ感じてみようというのです。


敗北した時のその悲哀というのは一体どういうものでしょうか?敗者の立場を予測してみましょう。まず、敗れて悲しい立場に立つようになると、怨讐たちが喜ぶでしょう。この場合の怨讐とは、この時代にいる怨讐だけではなく、歴史を蹂躙してきた天の怨讐であり、人類の怨讐であり、イエス様と聖霊の怨讐です。


この恨みを返すために、この時代の使命を担って刀を抜いて立ち上がった群れが正に皆さんです。どうせ刀を抜いたからには、怨讐たちを全滅させなければなりません。これが皆さんの使命なのです。


それでは、勝者の栄光を収めるべきなのが皆さんの使命であるにもかかわらず、敗者の悲しみに遭うようになったらどうなるのかを、この時間に感じなければなりません。勝者の栄光に陶酔する座を離れ、敗者の悲しみがどれど修めかということを私たちはひしひしと感じなければなりません。そして、人類の怨讐であり天地の怨讐を撃退させるために働かなければならないというのです。しかし、その仕事は一人ではできません。


ある食口たちは、食口たちの間で互いに気が合わないと言って間隔を置き、相手を批判して審判しますが、それではいけません。神様の全体的な作戦を遂行するにおいて、いまだ勝利の座に進み出ることができない立場においては、そうすることはできないのです。栄光の座、勝利の座へ至るまでは、まだ苦難の峠をもっと越えなければなりません。


もしもエデンの園のアダムとエバが、堕落の結果がどういうものかということを確実に知っていたなら、堕落することはできなかったはずです。結果がこれほど残酷で悲惨なことになるということを知っていたならば、絶対に堕落しなかったはずです。


これと同じように、第二次七年路程の最初の年である一九六八年の年初に立っている我々も、敗者の悲哀がどういうものかということを知れば、絶対に敗北することができないというのです。そうした後に目標意識を確立して勝利の目的を強固にしなければならないと誓わなければならないのです。


敗者の悲哀を想像してみると、その結果がどのようになるかということが分かるはずです。アダムとエバの一日の失敗によって神様が六千年の恨に浸るだろうということを一体誰が知りえ、また、彼らの子孫がこのように数千年にわたり先祖を恨むようになるということを一体誰が知っていたでしょうか? このような事実を予測していたら、千万回倒れて死ぬ恨があったとしても、堕落は決してできなかったはずです。


同じように皆さんも、統一教会が行く道で勝利の一面だけを望み見て喜ぶのではなく、勝利を収めるために辛い逆境の中にあっても勝利を誓うことができる刺激剤として、敗者の悲哀がどれほどひどく、どれほど恐ろしいものであるかを知らなければなりません。


ノアが百二十年の間苦労して箱舟を造り、立てた家庭がハムの失敗によって崩れたということを皆さんはよく知っています。また、アプラハムが供え物を裂かなかったという小さな失敗一つがイエス様を十字架に売り渡すようになった動機になり、あるいはイスラエル民族がカナンから追放される動機になるとは夢にも思わなかったのではないでしょうか?


このように歴史上の過去と現在をかけておいて秤(はかり)の錘(おもり)のような立場に置かれているのが、今日の我々であることを知らなければなりません。それゆえ、ここで我々は敗者の悲しみがどれほど惨めなのかを想像し、そういう惨めな位置には絶対に落ちないと、歯を食いしばりながら誓わなければなりません。そうしてきょう一日も勝利の道に行くことができるように、同志たちの隊列に歩調を合わせなければなりません。


惨めな過程の果てに来る成功


目的意識に徹底した人になると、その場で無限の喜びと痛快感を感じることができます。このような感覚が感じられない人は、勝利の夢を見ることはするのですが、それはたやすく社会に現れることができないのです。そういう人はすぐに疲れくたびれてしまい、後悔するものと決まっています。それゆえ皆さんは、 敗者の悲哀を体験する立場から、勝利の決戦場を望み見る天の勇士になるべく覚悟を固めなければならないのです。


先生はこの道を出発する時にそういう覚悟を固めました。それでは皆さんがこの摂理の前において志を成し遂げることができなければ、どこに行くのでしょうか?最後の談判をしなければなりません。そして、統一教会の看板の下で倒れる覚悟をしなければなりません。


その立場がどれほど惨めでしょうか??天地の何よりも惨めなのです。その立場は六千年の悲しみが一瞬に再爆発しうる立場であり、イエス様と聖霊、そしてそれ以後の幾多の先知先烈たちが血を流してきた全ての労苦が徒労になってしまう立場なのです。また、歴史の峠道で忠孝の道理を尽くした美徳と善の目的を志向して進む中において収めた実績の全てが破

綻する立場なのです。ですから、その立場はどれほど哀れで惨めな立場でしょうか?


栄光ある立場にある自分よりも、この悲惨な立場にある自分|が何千万倍も恐ろしくて、戦慄させられるほどの残酷さに震えるほどの心が生ずる人であればあるほど、その人はいかなる織烈な闘いであれ、どんな怨讐の矢が向かってきても、それに絶対的に勝つことができるという基準を持ってその悲惨な心情以上を貫き進んでいかなければ、難しい環境を開拓することができないという事実を知らなければなりません。我々が行かなければならない道はこのような道なので、我々にはすべきことがあまりにも多いのです。手足が千本万本あっても不足なありさまなのです。


こういう立場から全体を抱いで進み、勝利の結果を誓うには、あまりにも不足で、あまりにも弱いということを感じさせられます。だからといって、崩れ、倒れ、座り込んで悲しむのではなく、敗北させられるとどうなるのかを考えて、それに備えなければなりません。


きょう、新年の初めに皆さんは燦欄(さんらん)と輝く勝利への希望に浸ることも必要でしょうが、それを自分のものにするためには多くの苦労が必要だということを感じなけれ

ばなりません。同時に皆さんはこの時間に敗者の悲哀がどれほど悲惨であるかを感じなければなりません。これを基盤として全体を解決しなければならないのです。


何かの仕事をするためには、それに伴う苦労がどれほど大きいでしょうか? 例えば人工衛星を発射するとしても、それを造るまでの過程にどれだけ多くの苦労があるでしょうか?その時には栄光も何もありません。成功の一時を望み見て、それこそ困難で悲惨な過程を克服しながら、そのうんざりするほど悲惨な峠を越えていくのです。そうしてその目的が成し遂げられれば、その喜びは天下において他には味わいえない喜びとなります。同じように我々統一教会の信徒もそのような峠を越え、任せられた使命を完遂しなければならないのです。


反対されながらも多くのことをなしてきた我々


この一九六八年からはなすべきことが多いのです。それを全て今この場で語ることはできません。我々は韓国に対する使命だけでなく、 世界に対する使命も果たさなければなりません。今日の統一教会を発展させるのに先生は自由党の迫害を受けながら、日本と米国に宣教師を送らなければなりませんでした。今は韓国政府が理解していますが、あの時は迫害し反対しました。当時、韓国と日本は国交を樹立していなかったために、日本に渡る宣教師は密航船に乗って行かなければなりませんでした。


その一方で米国に宣教師を送る時は自由党を利用しました。もしそうしていなかったら、今日このような勝利の基盤は絶対に備えることができなかったはずです。


我々は一九六三三年度末期にも文教部(韓国政府の文部省)と闘いました。その後、政府に宗教団体の登録を申請したのですが、統一教会の登録許可申請を文教部で却下してしまったのです。そういうことを我々はわずか一週間でひっくり返しました。何をしたのか知っていますか?その当時、日本では宗教法人の認可を受けており、米国でもすでに登録を終えており、ドイツでもすでに登録を終えた後でした。こういう一連の事実が文教部に知らされたのです。またその時は、我々はそれこそ正にこの民族を代身し、生命を懸けて地方で啓蒙活動をすべき時でした。実績の前には誰も文句など言えないのです。


今は我々の勝共活動は定着しましたが、初めはどれほど嘲笑(しょうしょう)されたことでしょうか。「反共連盟があるのに統一教会が何の勝共活動なのか」とあざ笑いました。「世

界の半分を併春(へいどん)した共産党がどれほど恐ろしいか分からないのに、何の備えも持っていない素っ裸のくせに、何をしようというのか」と嘲笑しました。そのとき先生は、

「愚かなのは一体どちらなのか、今に見ていろ」と思いました。結局、二年もたたないうちに警察局長が我々を訪ねて来て、道知事が公文書を送って我々を後援するようになりました。


今後においても先生は作戦がたくさんあります。皆さんはどんな所に送ってほしいと願っていますか?人はどこの誰であれ大きな使命を担うことを願っています。古来より人間は本質的にそういう欲望と欲心を持っています。しかしその責任と使命は、誰でも果たしうるものではありません。


勝利の秘訣


それでは責任を負う前にどういう心を持たなければならないかというと、責任を果たすことができなければ生命と引き換えるという信念を持たなければなりません。そのようになれば問題の核心を解決しようという、とてつもない解決点が生ずるようになります。


最近、我々の工場でも仕事を任せっぱなしにしておいたところが、本来の生産高の三分の一しか生産できずにいます。ところが、これを思想的に団結するように訴えて追い立ててみたところが、1週間もしないうちに生産が三倍に増加しました。このように責任を果たすことができなければ、自分たちが面目を立てることができないという立場に行き着くというこ

とが分かれば、真剣になって働くのです。


自分が何をするにせよ、敗者の悲哀を免れるためには、それが民族的なら民族的に責任を負ってくれ、自分を証ししてくれる同志が必要です。そして、世界的な版図を懸けた闘いに責任を負うという人であればあるほど、彼には自分を証ししてくれる世界的な同志が必要なのです。


民主世界の同盟国を必要とするのも、敗者の悲哀がどうであるかということを心配するからです。これを出発当時から感じることができない人は、勝利の栄光を収めることができません。アダムはそれを感じることができなかったために、エデンで勝利の栄光を収めることができなかったのです。我々の先祖がそういう失敗をすることによって、その子孫たちがこれほど悲惨になったということを知っている以上、我々は再びそういう失敗を犯す前轍(ぜんてつ)を踏んではならないというのです。


敗者の悲哀が普段から我々に照準が合わせられているということを知らされたら、我々はどうすればよいでしょうか?(敗者も勝者も)両方とも征服して勝利の道に行こうというのが、統一教会の作戦であると同時に神様の作戦です。


それでは今日、我々が計画した全てが失敗するようになって敗者になったら、どのようにするつもりでしょうか? 大きな所望を持つ人においては、その行く道で失敗することはできません。専ら前進する分に比例して勝利があるのみです。こういう覚悟の下に進み出なければならないのです。そうすれば必ず勝利するようになります。進撃のためには、死ぬにせよ生きるにせよ、二つのうちの一つを選ばなければなりません。


皆さんは必ず勝利しなければなりません。そのためにはどうしなければならないのでしょうか?他人が一度勝つなら自分は二度勝ち、他人が一時間眠るなら自分は半時間眠り、他人が一食分食べるなら自分は半食分だけ食べるという信念を持って闘わなければなりません。勝利の秘訣は他にあるのではありません。どれほど多く時間を割いて、多くの努力をして、資本をどれほどたくさん投入するかに依存しています。


まるで入学試験を控えた受験生のように、時間との闘い、精神の闘い、努力の争いが重要なのです。落第した人々は他人よりたくさん眠ったとか、たくさん食べたとか、とにかく他人より一つでもより楽に過ごした人々です。先生はこの頃、早朝四時三十分に起きて工場に行きます。工場へ行くのも先生は誰よりも先に行きます。


最大限忍耐してから祈祷せよ


これから第二次七年路程において先生はどうするつもりなのかというと、皆さんをそのまま安楽に放ってはおかないでしょうし、もう殴ってでも追い出すつもりです。先生には年上だとか、両班(ヤンパン)(貴族)だとか、高官だとか、一切関係ありません。先生には休む時間がありません。逃れる時間がありません。だからといって、先生は何か出来の悪い人ではありません。これは全て、 皆さんを勝利者にするためなのです。


皆さんに伝道に出るよう命令をするようになれば、一瞬にして皆が市内に出るようになりますが、それはなぜ行くのでしょうか?目的があるから行くのです。それは勝利という果をもたらすためです。ところで、 結果が勝利として現れないときは敗者になるしかないのです。


どんなことでも先生がいったん手を出せば、必ず善の結果か悪の結果の二つの中の一つに決定されます。


これから一九六八年を中心とした統一教会の標語は、「全面的な前進」、または「全面的な進撃の年」です。進撃という言葉は実感の出る単語です。戦争する気分にさせる言葉です。進撃するにおいては、勝利するか敗北するか、二つに一つしかありません。それゆえ皆さんは勝利するか敗北するかという結果を懸けて耐え忍ばなければなりません。だとすれば、ど

うならなければなりませんか?勝利しなければなりませんか、敗北しなければなりませんか?(「勝利しなければなりません」)


この世の中のどこに、勝利しないように願う人がいるでしょうか?ところが世の中には敗北する人が多いのです。人は誰もが成功することを願いますが、結果は敗北する人が多いというのです。勝利するためには鍛密(ちみつ)な作戦を立てて総進撃しなければなりません。


大韓民国を救うためには、三千万民族を引っ張って行くことができる力を持たなければなりません。三千万が眠りから目覚めなければ、踏んででも覚ますことができる粘り強い忍耐力がなければなりません。忍耐心がなければなりません。それは綱引きをするのと同じです。彼らを一度に全て連れて行くことができないので、眠っている時間にでも引っ張って行こうというのです。私の力が足りないので、「神様、手伝ってください。霊界よ、手伝ってください」と祈祷するのです。


しか その祈祷が個人の目的のためだとか、自分の息子、娘だけのために行うものであってはいけません。それでは、どんなに祈っても、その祈祷は成し遂げられません。むしろその息子、娘がならず者になってしまったりするといのです。見ていなさい、 そうなるか、そうならないか。自分のためとか自分の家庭や自分の息子、娘のために祈祷する精誠をもって

民族と世界万民のためにささばげよというのです。我々統一教会はそういう内容を全て知っているのに、そういう祈祷をしないのです。


天運に乗ることができる立場


それでは少数をもって多数の敵に対して勝利しようとすれば、どうしなければならないかというと、非常作戦を使わなければなりません。奇襲作戦をするとか、誘導作戦をするとかしなければならないというのです。そうではなくて側面作戦をするためには力が強くなければなりません。


ところが私の力が足りないので、神様の力を借りるのです。それゆえ祈祷するのです。そして、それが神様のみ旨に適合するとき、その祈祷は成し遂げられるのです。それゆえ統一教会の行く道は、苦難の中で「転禍属福」(禍(わざわい)を転じて福と為すこと)を得る道です。


打たれてから後に勝利した者は、勝利した後に殴る者がいません。打つ者がいないのです。しかし、打たれないで勝利した者は、勝利した後にまた打たれなければなりません。だとすれば、どちらが良いですか?世の中の入々は先に勝利のみを要求するけれども、打たれた後に勝利するという発想はしません。しかし、復帰歴史はそうではありません。神様は先に打たれた後に奪ってくる作戦を使われます。


力の比重において彼らと対抗できる力量をどこで補うべきかというと、神様です。神様は我々と一緒になさるのです。先生が先ほども申し上げたように、統一教会は天運に乗っています。


この大韓民国の国運がどんなに立派だといっても、それは世界の運勢が押し寄せてくれば、その前には下敷きにされてしまいます。また、世界の運勢がどんなに力が大きいといっても、天運が押し寄せるようになれば、世界の運勢も押しのけられてしまうのです。ですから我々は大韓民国の運勢を代身して、勝利のために天運に乗っていかなければなりません。


それでは、天運に乗ろうとすれば、先に天運の行く道がどういう所なのかを知らなければなりません。その所は万民が好む所、楽しみ、飲み、食べる所ではありません。皆が嫌がる立場なのです。その立場はどんな仕事でもいつも感謝して責任を遂行しながら、栄光を神様の前に返し、自分自ら感謝することができる立場でなければなりません。そういう立場におい

てこそ人は天運に乗ることができるのです。ですから皆さんは必ず勝利しなければなりません。


怨讐を知って進撃してこそ


第一次七年路程の初年度の標語は「生涯中、最大の実績を残す年となるようにしよう」 というものでした。「生涯の中で最高の実績をなす」とは何を意味するのかというと、何よりも勝利の結果をもたらさなければならないということです。七年路程のこの標語は、皆さんにおいて常に永続的な標語となるでしょう。


こういう意味から、今年の「全面的な進撃をしよう」という標語を中心とした統一教会の要員全体」がどのようにすれば休まずに活動するだろうか、それが問題です。そうするためにはまず皆さんの内的整備が必要であり、目的意識が確立されていなければなりません。次には、敗者の結果を体験しなければなりません。このような過程を経て勝利の誓いをなすこと

が、活動するにおいて絶対要件であることを皆さんは知らなければなりません。


その要件の中で、第一は活動であり、その次には敵を知ることです。我々の敵が誰なのか知らなければなりません。活動するにおいては常に反対する群れが生じますが、その反対する群れの実体を知らなければなりません。


皆さんが活動するに際しては二種類の敵があります。見える敵と見えない敵です。この二つの敵はいつも我々に向かって共同作戦を繰り広げています。これによく対処していくためには、先に敵を知らなければなりません。それゆえ皆さんが一日の生活において最も重要で必要なことが何なのかというと、祈祷生活です。祈祷を通じて見えない敵を知って、見える敵

を選り分けなければならないのです。いくら全面的な進撃をするといっても、敵を知らなければ襲撃されるのです。むやみに飛び回り暴れ狂うのでは、やたらと打たれるだけなのです。


今日の統一教会の信徒たちは、「原理」のみ言を聞いて、み言がどうだこうだと言いながら恩恵を風呂敷ごと放ってしまい、むやみやたらに話をしていますが、そうしていてはかえって引っ掛かって倒されてしまうのです。その人だけが引っ掛かって倒されるのではなくて、先生までも引っ掛かって倒されるというのです。そうなってしまうと結局は、その人も死に、先生も死ぬ結果になるのです。


ですから皆さんは敵が何であり、怨讐が誰なのかを確実に知らなければなりません。ただ分別のない愚か者のように飛び回ってはいけません。自分が現在置かれている立場がどういう立場なのかを確実に知らなければならないというのです。


どういう進撃作戦を選ぶかということも重要な問題


進撃作戦では守備か攻撃かの二つの方法があります。ですから、環境によって怨讐を選り分けて作戦を立てなければなりません。すなわち、あの人はああだから、こういうふうに守備しなければならない、あるいは、この人はこうだから、そのように攻撃をしなければならない、ということを見極めなければなりません。そして、間違いなく自分のほうに呑まれてく

ると考えられるときは、容赦なく直射砲を撃つのです。いったん攻勢を取ったら少しの容赦もあってはなりません。


怨讐の中には、地区なら地区に対する怨讐があるものであり、地域なら地域の怨讐、教会なら教会の怨讐があるものです。また、信徒なら信徒の怨讐があり、体なら体の怨讐があるのです。ですから、戦場に出る皆さんは怨讐を選り分けなければなりません。そうできなければ敗北するのです。


これから皆さんは、神様のみ旨を中心として神様の怨讐を選り分けなければなりません。そうするためには神様の怨讐が誰なのかを確実に知らなければなりません。また、統一教会の怨讐が誰なのかを知らなければなりません。そして、怨讐と敵対するときは、間接作戦にすべきか、直接作戦にすべきか、または包囲作戦にすべきか、そうでなければ迂回作戦にすべきかという問題を上手に選択しなければなりません。そうでなければ所与の目的を果たすことができません。ですから、最も重要な問題は、怨讐を確実に知らなければならないということです。


それでは、怨だとしたら、どういう怨讐なのかというと、その怨讐は六千年間、神様を悲しませ、苦しませ、食い物にしてきた怨讐であるということを、 皆さんは知らなければなりません。この怨讐の知恵がどれほど海千山千の狭滑さだったのかというと、天地を創造した全知全能であられる神様を六千年間も死の境地に追いやってきたような怨讐なのです。


それでは、その怨讐が誰かといえば、サタンです。サタンだという事実を知らなければなりません。そして、そのサタンの氏族が三十億人類という一味であるということを知らなければなりません。こういうサタンに対する進撃作戦をどのように展開すべきか。これは先生がまず始めることなので、皆さんも従ってきて、何としてでも所与の目的を果たさなければなりません。これが皆さん各自に任せられた責任なのです。


三位基台を編成して合同して前進せよ


皆さんは現在置かれている立場で怨讐を選り分けなければならず、次には自分が置かれている立場が昼なのか夜なのか知らなければなりません。言い換えると、恩恵が共にある立場なのか、恩恵が去った立場なのかを知らなければならないということです。攻撃をするにも、神様が協助する舞台を備えて攻撃せよというのです。一人で攻撃せずに、志願兵を募集し

て一緒に攻撃せよというのです。そうするためには、自分の環境が昼なのか夜なのか知らなければなりません。


そうしなければ、自らの能力で支えることができないのです。支えることができないので、同志が必要なのです。それゆえ、み言に三位基台の法度が出てくるのです。ゆえに三位基台を備えておいて、合同して進まなければなりません。


神様は一人で進むことを好みません。一人で前進するのは失敗する可能性が大きいからです。それゆえ合同作戦をしながら進みなさいというのです。そのため、三位基台を編成して前進する作職によって全面的な進撃活動を展開しようというのが、今年における先生の計画なのです。


これから統一教会、および統一運動は相当多くの分野で活動することになります。超教派運動から勝共講義、原理研究会活動、そして文化事業に至るまでさまざまです。個別的な内容は追って別途に示しますが、これらを中心として全面的な進撃活動を展開しようとすれば覚悟を固めなければなりません。一九六八年を神様が喜ぶことができる勝利の年にしなければ

なりません。そうして、第二次七年路程の初年度を輝かせ、神様に完全にささげることができることを願い、また、そうするために努力することを皆さんにお願いする次第です。


全面的な進撃を展開するにおいて皆さんは新たな覚悟をしなければなりません。それゆえ、

一九六八年を勝利の年として、第二次七年路程の初年度を輝く年としてささげることができることを願っています。この活動を成功裡に展開するためには第一に内的整備、第二に目標意識確立、第三に敗者の結果を体験することが必要です。


今日、世の中の人々はこういったことを考えもせず、仕事だけすれば全て成功できると思っています。そのため、どんなことをするにしてもたやすく成功できないのです。


しかし、皆さんは迫害され、無実の罪に問われて監獄に入ったとしても、それを収拾できる方法まで考えておいて活動しなければなりません。そして、活動するときには必ず怨讐を選り分けて闘わなければなりません。サタンがどういう時に攻撃してくるかもしれないので、夜も昼も怨讐を選り分けるのに注意を怠ってはいけません。


そして、先ほども語ったように、怨讐に向かって進撃するにおいて自分の独断で進撃してはなりません。現在、皆さんの環境をよく調べた後に同志と協力して進撃しなければなりませ

ん。そうすれば必ず所与の目的が達成できるでしょう。


七年の大患難と同じ第一次七年路程


それではこれから、第一次七年路程と、今年出発するようになる第二次七年路程の性格についてしばらく語ろうと思います。去年一九六七年は先生においては二十一年路程が終結する年であると同時に、皆さんには第一次七年 路程が終わる年でした。ここで皆さんは第一次七年路程と第二次七 年路程の性格を確実に知らなければなりません。そうしてこそ天の時に関することが分かるようになるのです。


七年路程は歴史的な蕩減をする期間です。イエス様は四十歳の時から、四十の峠を中心として世界的な蕩減路程を越えなければ なりませんでした。聖書には三年公生涯路程を歩んだとされていますが、元来は家庭的に始めたのが 二十七歳からです。二十七歳から 三十三歳までの七年間が第一次七 年路程であり、三十四歳から四十歳までが第二次七年路程になるのです。この第二次七年路程はヤコ ブがハランに行って家庭を復帰することができる基準を決定して故郷に帰って来たのと同じなのです。このような二十一年路程が、 イエス様が行かなければならな かった路程でした。その路程が統一教会では第三次七年路程に該当するのです。


第一次七年路程を聖書の中で見ると、七年の大恵難と同じ時期です。キリスト教の信者たちに七年の大患難について尋ねると何と答 えますか?終わりの日には信仰 が見られないと言われているので、「それは天地開闢がなされる と、皆が捕まえられ殺されるからだ」と言いますが、それは間違って理解しているにすぎません。それはとんでもないことです。今、 この地球上ではキリスト教徒が世 界の人類の三分の一を占めています。ところが彼らは七年の大患難について知らずにおり、そうであ りながらも我々を迫害しているの が実情です。そういう迫害は共産党たちの迫害と違いがありません。


それでは、七年の大患難とは何なのかというと、来られるそのかたが受ける患難なのです。堕落し た罪を犯した子らが受ける患難 が、どうして「大患難」と言えま すか。「大」の字が付いている患難は、主人公となるそのかたが迫 害を受けて苦難に遭うことを言い ます。摂理的にそのようになっています。ですから、そのかたはこの地上に来られて苦労をしなければならないのです。


それゆえ我々はこの七年路程期間に七千年の歴史を蕩減しなければなりません。それは世界史的な 六千年歴史を中心として縺(もつ)れ合っ た全ての事情をひっくるめて一度に蕩減するのです。


皆さんは縦的な歴史を横的に蕩減復帰するという「原理」を学んだはずです。縦的な歴史を横的に蕩減するという内容は真に良いのですが、しかし現実的に見ると、蕩減というものが、どれほどおぞ ましく困難なことなのか分かりま せん。しかし考え直してみると、 蕩減復帰できるということは、ど れほど感謝すべき、ありがたいことか分かりません。大きな蕩減は やろうとすればうんざりするほどおぞましいものですが、小さな蕩減は軽くさっとできるのです。


神様はイエス様を送るのに四千 年かかりましたが、そのようにイ エス様は悠久の歴史を経て来られ たおかたです。生まれる時は母親の腹の中を通して十か月目に生ま れるのですが、地上へ来られるために四千年前から準備されてきた かただというのです。そういう歴史的因縁を持って現れたために、 その時までの四千年の歴史を蕩減することができたのです。


イエス様は四十歳の時にそうい う歴史的な蕩減をしなければなら なかったのですが、ユダヤ民族の 不信によってそれができなかった ので、我々が七年路程でそれを蕩 減しなければならないのです。皆さんは四十日復帰という言葉を学 んだはずです。イエス様が四十歳 の峠を越えることができなかったので、我々には四十代の峠を望み 見て行かなければならない路程が 残っているのです。すなわち、そ ういう蕩減路程が残っているの で、再び来られる再臨主も七年の 大愚難に遭遇するしかありませ ん。こういう原理的根拠があるのです。


息子に裏切られた神様


それでは、迫害は誰から受ける かというと、他人から受けるので はありません。迫害というのは自分の家族から受けるのです。世の中で最も悲しく悔しく恨めしいこ とは何かというと、自分と最も近い人から悲しみを受けることで す。近い人から受けた悔しさと恨めしさは千年万年たっても忘れら れないのです。


そういう観点からすると、神様とアダムとエバの間はどれほど近かったでしょうか? 血が通じ、 骨と肉が通じる問でした。父が泣けば息子も泣き、父が笑えば息子も笑う共同運命の関係でした。死の峠も一緒に越え、復活の恩恵も 一緒に受けることができる境遇にありました。このように近い間柄だったのに、息子が正にその父を裏切ったのです。また、天使長は神様の僕であり、神様の忠臣でし た。ところが、忠臣が君主を打つ 事件が起きたのです。これが堕落歴史の出発です。人類歴史がそうして始まったのです。


そのため終わりの日になると、 真の道に復帰する道においては最も近い人が打つという事件が起きるようになります。蕩減復帰の原則がそのようになっています。


それゆえ統一教会の行く道が真の道ならば、父親が教会に行くと母親が打ち、母親が行くと父親が打ち、子供が行けば母親が打ち、 母親が行けば子供が打つという役事が起こらなければなりません。 そういう教会でなくては、本当の真の道を捜し求めていく教会では ありません。それゆえ統一教会に 行くと、家庭が破壊されるという噂が立つようになるのです。蕩減復帰原則がそのようになっています。


それでは、統一教会の先生はどうしなければならないかというと、先生も同じです。それゆえ先生も父と母を苦労させることをしてきました。しかし、それは悪い意味からではなく良い意味からで した。兄弟たちも私を打つことをしましたが、彼らは悪い意味から 先生を打ちました。そのようになっています。そうなると、どち らが良い人ですか?聞いてみるまでもなく、良い意味から打つことをした人となります。ですから、 蕩減原則を知らなければならないのです。


世の中で胸が張り裂け、服が引き裂かれるような心痛い事件がどうして起こるのかというと、人間が最も近い立場で堕落したからで す。最も近い人から裏切られる事件が起こるのです。


真の道を行く人は、初めに家庭 において三人以上の最も近い人から迫害を受けるのです。縦的な蘇生、長成、完成の三時代を横的に蕩減するために、家庭で三人の人から迫害を受けなければならないのです。そのために親やお兄さん、 お姉さんまでもが、わけもなく反対するのです。


気迫と度胸を持った人になれ


復帰歴史は次子を中心として成されるために、元来三人の人が反対するようになっています。堕落した父と母がいて兄がいるので、 次子を中心として見れば、三人の 人に反対される立場から出発するのが原則になっています。その次には、それを起点にして親戚たち が反対します。しかし、親戚全てが反対したとしても、「この親戚 がいなければ生きられないわけではないから、新しい親戚をつくれ ばよい」と言えなければなりません。


そして、新しい民族を創建するために新たに出発するという度胸 を持たなければなりません。民族が少々反対するからといって、そ こから押し出されてしまったら、 民族を救うことはできません。絶 対に救うことができません。ですから、民族がどんなに反対したと しても、この民族をもっと立派な 民族にしようという精神を持たな ければなりません。イエス様の思想がそうであり、先生の思想もま たそうです。


統一教会をめぐって一時的に世の中がどれほど大騒ぎをしました か。先生は監獄に入っても、ご飯 を感謝して食べます。監獄に入っても、麦飯であれ何のご飯であれ、出されるままに全て食べることが できます。しかし、それが問題ではありません。どこに行こうが、 唯一の心配は、私が失敗することによって蕩減の道にマイナスにな る結果が表れないかということで した。それこそが恐れるべきことであって、他のことは恐れるべきことではありません。


先生が監獄に入った時、企画課にいた人を今も忘れていません。 先生が入って行くや否や指を差し ながら、「何だ、おまえが統一教の文某か、この野郎」と罵倒してきました。それで先生が、「四十 日後にどうなるか見ていろ、この「野郎」と応酬してにらみ返しながら、「こいつは何をして食ってき たやつなのか」と大声で怒鳴りま した。すると、「オオ」と刃向か おうとするので、「オオとは何だ、 この野郎。 罪人たちを脅して血 を吸って暮らす悪党野郎が!」と、 もう一度大声で怒鳴りました。す るとその後からは、往来するとき先生を見ても見ないふりをするようになり、ある程度時間がたってから、「申し訳なかった」と言っ てきたのです。


後には所長まで先生に会おうとしました。看守たちが、「先生、 どこか調子が悪いところはありま せんか? 何か必要なことがあればおっしゃってください。買ってさしあげますから」と言いながら、餅を買ってくれと言えば餅を買っ てくれ、何か連絡を取ってくれと言えば連絡を取ってくれたりしま した。自分たちがしたくてしょうというのですから、それは罪ではないのです。(笑)


天下がどんなに反対して、世の中がどんなに手ごわいとしても、 その天下と世の中を溶かしてしま うことができ、呑み込んでしまえ るだけの気迫があれば、彼は英雄の称号を受けることができるのです。イエス様がそうでした。死を目前に控えていても、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)というゲッセマネの祈りを考えてみると、それほどまでに深刻な立場でさえ、これほど素晴らしい祈祷ができる人はいな いというのです。


最も近い人たちが自分をめぐって問題視する立場でなければ蕩減条件が成り立たないということを知らなければなりません。なぜならば、アダムとエバ、そして天使長が神様と最も近い立場で神様を 打ったために、それが蕩減復帰されるためには最も近い人々が皆 さんを打たなければならないので す。そのために聖書には家族が 怨讐とされているのです。その怨 讐を返していかなければなりません。怨讐の皮をはがして復帰しな ければならないのです。


皆さんが地上で勝利の王者にな ることを願うなら、家庭で不義の 心情を通じた者などを審判することができる権威を持った息子にならなければなりません。家庭に対しても、氏族に対しても、民族に対しても、そして国家と世界に対しても権威を持たなければならないのです。


今日、皆さんは天上世界の幾多の霊人を動員し、み旨を中心としてこの世界を審判することができる勝利者になろうとしながら進むべきです。そうしなければ、天の王子の姿を備えることができませ ん。統一教会の文先生は正にそう 決心して生活してきた人です。


先生の心情世界


これからは先生の個人的な心情を試験して秤にかけることは問題 ありません。また家庭的、氏族的、 民族的、国家的、世界的なことまでも問題ありません。一時は霊界の幾多の霊人たちが約四十日間にわたり文先生を放り出そうと、デモをしたこともありました。


これは信じられないような事実ですが、よく聞いておいてください。十二使徒やイエス様までも先生のことが分かりませんでした。 統一教会の文先生が霊界をメチャクチャにする業をしようとしていると言うのです。メチャクチャにするのは、一体誰がメチャクチャにするというのでしょうか?霊 界にいる者たちこそメチャクチャ にしているのに......。それで、ど ちらが真実なのか偽物なのかを明らかにする争いが起こったのです。それで四十日間の争いがあったわけです。


そのとき神様はすぐに判決をしてくださいませんでした。神様はどちらが真実なのか争ってみよという方式でした。それで四十日間判決を出すために争ったのです。 その争いで先生は決して敗者になりませんでした。神様がじっと見守っていらっしゃるので、霊界 も譲歩せず、先生も譲歩しないのです。ですから千年万年も争いが続くようで、神様が判決を下さなければならないという立場にまで至ったのです。


それで神様は天理の公法によって判決をお下しになりました。誰が勝たなければなりませんか?皆さんは誰に勝ってほしいですか?その争いで先生が勝ちました。間違いなく勝ったために、霊界の幾多の霊人たちも先生の言葉を聞くようになったのです。


これからは霊界も先生によって左右されるのです。先生はこうして霊界を統一した条件があるので、地上の統一を計画しているのです。先生が語ることだけ見ても、何の話なのか分からないでしょう。「世の中で自分は出来が良い」 と思っている人々が先生を見るときは、少々めでたくて何も知らない人のように見えるかもしれませ んが、中には先生を正しく見ることのできる人もいます。


神様の王子になるためにはこの世の中で縺れ絡んだ心情的な因縁を無慈悲に切ってしまい、唾棄するだけの覚悟がなければなりません。それがなくては天の王子にはなれません。なぜなら、この世の中は神様を打つことで始められた悪の世の中だからです。そのために悪によって縺れ絡んだこの世をそのまま放置してはなりません。 必ず蕩減復帰しなければならないのです。


蕩減の運命を背負っている韓国


大韓民国の為政者たちを時間をかけて見ると不正腐敗の問題が多いのですが、統一教会にはそういうことがありません。統一教会はお金で通じるところではありませ ん。統一教会が苦労するといって、お金などを持って来る人がいれば、先生はそれを全部送り返します。選挙の時に統一教会を利用しようとお金を送ってきたりもしま したが、そのたびごとに切手代を差し引いて残りは返送しました。 そういう面で理念的にも教会的にも統一教会は優れた宗教です。宗教的に統一教会、思想的に統一思想、理念的には統一理念、また、共産主義と唯心史観を統合することができる統一史観、何をもって見ても我々がはるかに高い段階に いるのです。


こういう状況で我々は今、七年路程について話しています。七年路程を行かなければならないからです。第一次七年路程は縦的な 六千年歴史を横的に蕩減させる期間です。この期間には六千年歴史の事情が大韓民国の歴史に全て入ってくるのです。不正腐敗の事情も全て入ってきます。


この国は蕩減の運命を背負っています。ですから大韓民国が腐敗したとしても、あまり悪く考えてはならないのです。腐敗した一面も、時によっては有利になることがあります。そのために六千年歴 史の複雑な全てのことをこの大韓民国を通じて蕩減復帰しなければ ならないのです。それゆえ大韓民国で悪なる人は世界で最も悪なる人になり、善なる人は世界で最

も善なる人になるのです。そうして悪なる人が善なる人を打つのです。


この七年路程は六千年歴史を総蕩減する期間なので、先生は 「アダム家庭から今まで六千年の復帰歴史過程において悲惨であった 事実、すなわち神様がサタンと対決しながら祭物を立てたけれども失敗してきた全ての事情を実体的に蕩減しなければなりません。そ れから先生一代でその全てを立てて勝利したという条件を備えなけ ればなりません。そうして、この平面図上のある一面にその条件を持っていって合わせなければ、全体の蕩減基準が成立できないのです。先生がこういうことをしなけ ればならないのは、全七年路程の責任を担っているからです。


それゆえ先生は、昔アダムが堕落する直前の心情世界を往来しな ければなりません。ノアが神様のみ旨のために立てられた時、民の背信に身悶えした事情の立場も通過しなければなりません。そういう心情の立場を中心としてアブラ ハム、モーセ、イエスの時代を経 て今までの先祖たちが経てきた全 ての心情世界を全て体験しなけれ ばならないのです。


これはたやすいことのようです か?皆さんには夢のような話に聞こえるかもしれません。ところ で、皆さんは先生が苦労するときに一度でも同情してくれました か?よく装い、よく食べ、全て自分の思いどおりに暮らしてきたというのです。歳月が流れて今頃になってやっと、先生がありがたいと......。皆さん、考えてみなさい。もし先生が来ていなかったら、 どうするところでしたか? 神様に対し大変なことをしでかしているのではないですか?ましてや今は六千年歴史路程において心情的に縺れ絡んだ事情を全て解かな ければならない時なのです。


神様は歴史的な神様です。過去 の神様であり、現在の神様であり、未来の神様なのです。


統一教会の基盤と源泉


皆さんの中に初めて統一教会に入って来る時に、好きで入って来た人がいますか? ほとんどの人はあの門の外に立って、少し顔だけ出して眺めていました。入るのなら早く入って来ればよいのに、首だけニュッと突き出してようすをうかがっていました。しかし、先生のみ言は一時間聞くだけでも精神が輝きだすというのです。目から火が出るほど引き締まるみ言です。それで自然に入って来るようになったのです。


そういうことを見ると、み言が良いというのは本当なのです。何をしてきた人であれ、何を考えてきた人であれ、全部引きつけられてきて、み言を語れば一人残らず全部が頭を下げます。初めは自分を押し立てますが、結局は頭を下げて姿勢を正します。先生が語るみ言を聞いてみると、初めはよく分からないと言っていても、結局は正しい話であることが分かるよ うになるからです。皆さんも初めは皆そうだったはずです。


そういうことを見ると、神様は闘いの神様のようです。皆さん、統一教会に入って来るようになっているのか、考えてみてください。入って来るようになってはいません。皆さんにもう少し深い事実を言ってあげたいのですが、事実を言ってあげると皆が逃げ出すのではないかと心配なので話しません。皆さんが逃げ出しても先生は構いませんが、皆さんがかわいそうになるからです。


この七年路程は歴史路程の全てを蕩減する期間だと言いました。先生は涙で世界のために祈祷し、胸が詰まる嘆息の心情で世界を悔い改めさせなければなりません。


この民族に対してもそうです。そのために、愛国者がどうだと言っても、この国のために先生以上に涙を流し、先生以上にこの国を愛した人はいないでしょう。また、世界についても先生以上に涙を流した人はいないでしょう。


皆さんはどれだけ切実に神様を恋しく思い、先生に会いたいと思いましたか?あるおばあさんが先生に会いたくて涙を流し気絶したということですが、そのおばあさんはいつこういうことを学んだのでしょうか?先生がさせまし たか?


そこまでしても神様に対し借金を全て返すことはできません。死ぬまで返し続けても、その借金を全て返すことはできないというのです。皆さんは神様が恋しくて、 先生が恋しくて涙を流したことがありますか?先生は神様が恋しくて、目を開いて日の光が見られないほど泣いたことがあります。 ところが、統一教会は異端であり、 先生は異端の魁首(かいしゅ)だといって騒ぎ 立てます。本当に呆れたことです。しかし、時がたてば分かることです。精誠を込めた塔が崩れるでしょうか?天法には「ただ」(無 料)ということがありません。


統一教会に文先生がいて、統一教会の動機と源泉になり統一教会の基盤になったということを知らなければなりません。今や世の中のいかなる権力を握った人でも、統一教会に来て先生に会いたがります。先生の位置は米国の大統領やどこかの誰かに代身せよと言っても代身できない位置です。誰も代身できない座です。この座は先生であってこそできる座です。


六千年間も悲しみを経てこられた神様の心情を集中させて蕩減計画によっていっぺんに涙によって完全に覆さなければなりません。これが蕩減復帰歴史です。この湯 減復帰歴史を、大韓民国を中心に七年間展開してきたのです。


天地の中心と -宇宙の根本たる父子関係


それでは、この期間において結局は何をしなければならないのでしょうか?イエス様はイスラエ ル民族とユダヤ教を収拾し復帰の使命を果たすことができませんでしたが、その使命をこの地上で果たさなければならないのです。それでアダムからイエス様までの 四千年歴史と、イエス様以後の延長された二千年を含めて六千年歴史を蕩減しなければなりません。 そうしてこそ、イエス様の在世中の所願であった基準に完全に蕩減復帰されるのです。


それではイエス様の所願は何だったのかというと、結婚することでした。この言葉を既成教会の人々が知れば、驚いてひっくり返るでしょう。イエス様の願いは正に結婚することだったというのです。


何ゆえ結婚しなければならないのでしょうか?人類の出発が堕落した先祖からなされたために、 人類にはこれまで真の先祖がいなかったのです。神様の創造理想は真の先祖となる人を聖婚させ、神様の愛と一体にならしめることでした。そうして神様を中心とした 直系の血統の家系を成すことが創造目的でした。しかし、人間が堕落することによってサタンの血統を受け継ぐようになりました。血筋が違ってしまったのです。そのため、この地に住む人がどんなによく信仰しても養子にしかなれないのです。養子は血筋が違うのです。


神様は天地創造を何ゆえなさり、アダムとエバを何ゆえ創られ ましたか?それを知らなければなりません。何ゆえ創造されたのかというと、それが善であるために創られました。神様が善であるために創造なさったのです。


アダムの中に神様が入って無形の父となり、アダムを有形の父とならしめようとなさったのです。 それゆえにアダムは実体を持った神様にならなければならなかった のです。だとしたら、神様は何ゆえ実体を必要となさったのかとい うと、ご自身が創造された実体世界は無形では主管できないので、実体を持った神様が必要だったからです。


それゆえ実体の神様として創られたのがアダムとエバです。ですからアダムとエバは神様と一体にならなければなりません。イエス様も神様と一体になるために来られたのです。神様と一体にならなければならない人間始祖アダムが パンクしたので、それを修理するために来られたのです。俗な表現ではありますが、失礼ではないでしょう。イエス様も多分好まれるでしょう。パンクという言葉を使うのが実感が出るからです。事故とか何とか表現するよりは、パンクのほうが、俗な言葉のようですが、よく使われ実感が出るので使うのです。


それでは、パンクしたものを修理するためには、どんな人によっ て修理しなければなりませんか?堕落する前のアダムのような人によって修理されなければなりませ ん。そうしてアダムがパンクした所を修理すれば堕落する前のアダ ムになることができ、そのようになれば結婚できるのではないです か?アダムが結婚したら、どうなっていたでしょうか?アダムが結婚して神様と一つになり、エバも 神様と一つになり、神様とアダム とエバが一つになれば、エバは誰の妻でしょうか?エバはアダムの妻であり、アダムは神様の実体なので、結局エバは神様の外的な妻になるのです。


神様が人を創られたのは愛するためにです。それゆえ神様と血統的に一体であるアダムがエバと夫婦をなし子女を繁殖したならば、 神様の息子、娘をサタンがどうして奪っていくことができるでしょ うか?


天地の中心と宇宙の根本は何ですか?先生が神秘的な境地に入って神様に祈祷してみると、父と息子、娘の関係、すなわち父子の関係と言われました。知らない 人々は肉親の父、母、息子、娘との関係だと思うでしょうが、これは神様と人間との関係を言うのです。


エバはアダムの妻であると同時に神様の娘なのですが、そのエバ をサタンが強姦したのです。それゆえサタンは神様にとって姦夫になるのです。今まで既成教会の人々はこのことを知りませんでした。


皆さんは神様であるアダムを追い出して彼の妻エバを堕落させた姦夫の子息たちです。皆が姦夫の 族 属(チョクソク)(一門)ということです。 ですから、尊待(敬い高く待遇)する必要がありません。こういうことを言うと寂しく思うでしょうが、しかし先生の言うことが嘘か本当か、祈祷してみれば分かるでしょう。姦夫の子として生まれたことが気分が良いですか、悪いですか?気分が悪くなければなりません。体の中に姦夫の血が流れているので、刀で突いてでもその血を抜き取る覚悟がなければなりません。それゆえ断食もさせ、苦 労もさせ、犠牲を払わせながら打つのです。


神様が捜される理想の人物


皆さんは誤って生まれたのです。葡萄の木にならなければならないのが山葡萄の木になったのです。ですから、切ろうとするなら、 どこを切らなければなりませんか?根元を完全に切らなければ なりません。それでは、堕落した人はどこを切れば根元を切ることになりますか?足元を切るべきでしょうか、首を切るべきでしょうか?首を切らなければなりません。(笑)


キリスト教徒たちは、全知全能であられ慈悲深く愛に満ちた神様であられるので、千回万回罪を犯しても赦してくださると言います。そう言いながら彼らは、教会で祈祷して出てくるや否や、すぐに喧嘩をします。


教会とは、このように罪を犯した後に悔い改める「悔改堂」ではありません。そうでしょう?そのようにたくさんの罪を赦す神様なら、何ゆえエデンの園でサタン が一度犯した罪を赦すことができないのかというのです。そうではないですか?また、赦される道があったのならば、サタンは悔い改めたでしょうか、悔い改めなかったでしょうか?悔い改めたはずです。千回万回、涙を流して悔い改めをしたはずです。


しかし、天理の公法を破綻させた罪は赦される道がないのです。その罪が赦されたなら、宇宙の愛の法道は根本的に破綻し、愛のために創造されたこの世界は混乱に陥るのです。サタンは神様自体まで侵害しようとしたのですが、それを赦すことができますか?それができないから再び修正して、復帰の歴史を通して堕落しなかっ たという基準を立てなければならないのです。そうして、この基準によってサタンを放逐し、第二の理想的な人物を捜しださなければならないのです。神様はこのことをなさるのに六千年かかったのです。


それでは、その理想の人物を捜して何をしようというのかというと、堕落したアダムとエバを後回しにしておいて、堕落していないアダムとエバを再び捜し立てようというのです。そういう運動をし てきたのが六千年の歴史です。ですから、神様の息子、娘がいないのです。それでは、イエス様はこの地上に来て結婚しなければならないでしょうか、結婚してはならないでしょうか?


故障したものは、元の状態に修理しなければなりません。世の中も新しい世の中になることを願い、国も新しい国になることを願い、民族も新しい民族になることを願い、人も新しい人になることを願い、息子も新しい息子になることを願い、娘も新しい娘になることを願います。それゆえ新しい息子であるイエス様が来られたので、新しい娘もいなければなりません。ところが、新しい娘を捜していた途中にイエス様は亡くなられたのです。


それでは、新しい娘を捜すのが何ゆえ難しいのでしょうか?神 様はアダムをまねてエバを創られました。ところが、そのエバのためにアダムが堕落しました。ですから、それを蕩減復帰するためにはアダムをまねて創られたエバを再び創らなければならないのです。そのため再び創られるエバはイエス様に絶対服従し、イエス様と心情的な面でも全て一致し、そ の理念が私の理念であり、その志が私の志であり、その事情が私の事情であるとしながら侍ることができる新婦が登場しなければなりません。ところが、イエス様のときに、イスラエル民族の中にそういう女性がいなかったのです。


知ってみると、呆れ返る話です。宇宙の所望であるお母様お一方を捜し立てるためのイエス様の路程には、十字架も多く迫害も多かったのです。この村からあの村へ、この野原からあの野原に追われ、逃げ回りながら迫害を受けた哀れなイエス様だったということを皆さんは知らなければなりません。 ダビデの家系のヨセフ家庭を中心としてみ旨を立てようとなさったイエス様は、家庭でみ旨を立てることができずに家を出て、三年の公生涯の道を歩まれたのです。


元来はイエス様の弟妹や四親等(従兄弟など)や八親等の親戚たちの中から十二弟子、七十人長老、百二十門徒が出てイエス様と一つになっていたら、イエス様は十字架上で亡くなられることはなかったはずでした。ところが、イエス様の家門の皆が反対し、その中でも従兄である洗礼ヨハネまでも反対しました。荒野でイナゴと野蜜 を食べながらメシヤのための準備をしたという洗礼ヨハネがそのていたらくだったとしたら、結局はどうなるでしょうか?そうしてイエス様の第一次、第二次路程は失敗に終わってしまいました。そ れでイエス様は漁夫を捜していかれたのです。


イエス様の新婦


その全てが新婦一人を捜すためのことでした。世の中では三十余歳の独り者が新婦を得るのはどれほど簡単ですか?しかし、イエス様はそう簡単ではありませんでした。歴史的な全ての条件が合致しなければならないためです。その条件は、父母兄弟はもちろん、三代圏内の先祖たち全てがそろわなければならないのです。四親等、八親等まで条件がそろっていなけ ればならないというのです。そこにおいては、いずれか一つの条件でも合致していなければ駄目だというのです。ですから簡単ではなかったのです。


その家庭の系図を捜してみたときに、その家庭にこの条件を受け入れることができる基盤がなけれ ば不可能だというのです。四千年の縺れ絡んだ歴史を解くことができる、そういう家庭を中心として、イスラエル民族全体に歓迎されうる環境がありませんでした。そのためにイエス様は家を出てかわいそうな漁夫たちを弟子にしなければならなかったのです。このように見ると、イエス様がどれほど悲しい立場に立っていたのか、そのことを知らなければなりません。


イエス様はそれほど所望された新郎の座に就くみ旨を果たすことができなかったために、十字架に消えるしかなかったのです。それゆえ、「私は新郎であり、汝らは新婦である」という言葉を残されたのです。そのため二千年間にわたりキリスト教を中心として新婦一人を選ぶために準備してきたのです。今もキリスト教徒たちは、男も新婦であり女も新婦であると言いますが、そんな新婦がどこにいますか?男が新婦になると言うけれども、本当は、男は僕にしかなりません。新婦はエバであればよいのです。それゆえキリスト教の歴史では今まで女性たちが蕩減してきたのです。


恩恵も、最初は預言者アンナのようなおばあさんに来るのです。 おばあさんたちが先に恩恵を受けます。次にはおばさんたちが恩恵を受け、その次には娘たちが恩恵を受ける時が来ます。そのように中年時代を経て処女(未婚女性)時代に入る時に女性解放運動が起こるのです。


これが第一次七年路程を中心として七十年の歴史圏内に至るようになります。過去の女性たちは男たちに蹂躙されるなど、どれほど悲惨な立場でしたか?この解放圈内から統一教会が出てくるようになるので、女性たちの地位が定着するようになったのです。


イエス様は、新婦を捜すことがその一代で成し遂げなければならない目的であったにもかかわらず、この使命を成し遂げることができませんでした。そうして、「私は新郎であり、汝らは新婦である」という最後の遺言を残されたのです。それゆえ神様は、第二イスラエル圏内にある世界のどの国を問わず、最もよく信仰する信徒たちを中心として特等新婦を捜しておられるのです。その新婦を捜してきたのがイエス様以後の二千年の 歴史なのです。新婦を捜すことによって真の祖先が現れ、真の祖先が現れることによって真の父母が現れるというのです。


人類が待望する小羊の婚宴


本来エデンの園において真の祖先である真の父母が誕生しなければならなかったのが、人間の堕落によって六千年が過ぎた今に至って初めて、神様は再臨時代を中心として真の祖先を捜しだしたのです。言い換えれば、サタン世界の前に勝利した一人の男性が登場し、一人のエバを再創造した基準で神様の祝福を受けて聖婚式を挙げることによって初めて、六千年 前の真の人類の祖先の位置に立てられうる基準を復帰したのです。 幾多の堕落の子息たちが繁殖して きた六千年を経て初めて真の父母が現れたのです。それゆえ、また真の父母の腹を経て生まれ変わらなければならないので、キリスト教徒たちは生まれ変わらなければ 天国へ行くことができないのです。


今日のこの世の人々は真の父母を失った孤児たちです。孤児たちなのです。それゆえイエス様も人類を孤児にたとえたのです(ヨハ ネ一四・18)。父母がいない孤児たちなので、どんなによく信仰しても養子にしかなれないのです。


それでは養子はどうしなければ ならないかというと、真なる息子に接ぎ木されなければなりません。野生のオリーブの木を切ってしまい、真のオリーブの木の芽を接ぎ木しなければなりません。野生のオリーブの木が真のオリーブの木になる運動をしなければなら ないのです。重生するためには真の父母の血統を受け継がなければならないのです。それゆえ人類が待望するのは真の父母であり、イ エスと聖霊が待望するのは小羊の婚宴です。


キリスト教の中心はイエス様で あり、イエス様の中心は愛です。 それでは愛の中心は何なのかというと、愛の中心は新郎新婦です。すなわち、小羊の婚宴です。それゆえ小羊の婚宴は新郎新婦により成し遂げられるのです。そして、 新郎新婦の中心は真の父と真の母です。これをキリスト教徒たちは今まで知らなかったのです。


イエス様は救い主の立場であり、父の立場として子息を救うた めに来られたのです。そのために神様は僕として送れば僕としての分だけ愛してくださいます。また、養子あるいは聖霊を救い主として送ったなら、養子や聖霊としての分だけ愛されます。そういう神様は誰よりも人間を愛するために父としておられる神様の代身者としてイエス様を送ったということを知らなければなりません。それゆえイエス様は真の父であり、聖霊は真の母です。聖霊は母なる神ということです。ところが、キリス ト教徒たちはこのことを知らないというのです。


男は天を象徴し、女は地を象徴します。アダムの代身であるイエ ス様がこの地上に責任を果たし勝利したイスラエル圏を立てなければならないので、エバの代身の聖霊は罪を洗い清める役事をしなければならないのです。エバが罪を犯したので、母性神である聖霊はこの地上の罪を洗い清める役事をしなければならないのです。それゆえ聖霊を受ければ、すなわち母性神が臨むようになれば、父性神を欽慕するようになるのです。


母性神が臨めば、新郎になられたイエス様を慕うようになるので、愛の力がさらに大きくなるのです。愛の力がさらに大きくなる ので、新しい復活の歴史が起こるのです。重生が起こるのです。天的な愛を基盤として新しい生命を生む役事が起こるのです。


第一次七年路程は真の父母の因縁を決定するものでした。そして、 真の父母を中心として真の子女たちと真の家庭、真の家庭を中心として真の氏族、真の氏族を中心として第三のイスラエルまで連結されなければならないのです。


イエス様はダビデの家系を中心として出発し、イスラエル民族を蕩減復帰するために来られたのです。しかし、勝利できなかったので再び来られる主が個人、家庭、氏族を捜し立て、民族的な勝利の基盤を立てなければならない のです。イエス様の成せなかった 基準を蕩減する条件を立てなければならないのです。そうしてこそ 初めて勝利の基盤が用意され、そ の基盤の上で小羊の婚宴をすることによって第三イスラエルの編成が始まるのです。それゆえ統一教会では第一次七年路程中に三十六家庭結婚式、七十二家庭結婚式、百二十四家庭結婚式がありました。


第二次七年路程中にすべきこと


第一次七年路程は天地全体を中心として全体の使命を担った先生が行く道です。先生の二十一年路程中の最後の路程です。イエス様がダビデの家系、すなわちヨセフ家庭を中心として一体になって、イスラエル民族の反対なしに勝利の一路を開拓し、イスラエルの国を蕩減復帰しなければならなかったのですが、それができなかったので、統一教会はそれを蕩減復帰 するための業をしているのです。 それゆえ個人復帰、家庭復帰、氏族復帰を進め、統一氏族を編成しようとするのです。


統一氏族を中心として大韓民国の前に民族復帰の使命を果たすために第一次七年路程を設定して活動してきました。これによって大韓民国では統一教会の行く道を阻むことができなくなったのです。 イエス様が復活の権限を持って新しい世界に向けて出発することが できる時代圏を復帰したという条件を立てた位置に立ったというのです。それゆえ第一次七年路程を歩むことによって民族的な蕩減条件を立て、イエス様の所願であった民族を救援することができる基準を再び立てるようになったのです。


それでは第二次七年路程は何なのかというと、皆さんが祝福を受けたら家庭を成し氏族を成さなければなりません。民族を救うことよりも自分の氏族を中心として氏 一族的なメシヤの使命を担っていかなければならないのです。第一次七年路程において国家的な基盤を築いた後に、第二次七年路程においては氏族的なメシヤの基盤を築くのです。


皆さんが個性完成できる位置に立ったというのは、イエス様がダビデの家系のヨセフ家庭を中心としてユダヤの国を復帰しなければ ならない使命を背負っていたのと同じ使命を相続される位置から出発しなければならないのです。神様の前に祝福を受けて真の父母の因縁を備えた氏族的な先祖の位置を蕩減復帰しなければならない使命が残っているのです。そのために氏族的なメシヤの使命を完結す るために再び第二次七年路程を行こうとするのです。


それゆえ第二次七年路程においては、民族のために忠誠を尽くしてきた以上の忠誠をもって自分の父母兄弟や親戚を全て復帰しなければなりません。すなわち、氏族全体を神様の前に復帰しなければならないというのです。


今までの皆さんの先祖たちは、 神様の全体的な復帰摂理と何らの関係もない先祖たちでした。しかし、皆さんが氏族を復帰することによって真なる氏族的な父母の使命を果たすようになり、霊界の善なる聖徒たちとして皆さんと共に再臨復活の恵沢を受けることがで きる特権的な恩賜が施されるので す。そうして善なる先祖たちが地上に無数に再臨できるようになるのです。そういう時代が来るために、悪なるサタン世界はだんだんと消え去り、統一の運勢が新しい世界にだんだんと越えて来るようになるのです。それゆえ原理的に見ると、一九七四年まで我々の動きいかんに従って急進的な発展が見られることが予想されます。


第一次七年路程と第二次七年路程の性格は、このように差があるということを確実に知らなければなりません。ところで、ここで最も重要視しなければならないことは、既成教会問題です。現在我々の二十一年路程は、ヤコブがハラ ンという地を捨てて自分の故郷の地カナンを訪ねて来た時と同じ時点に置かれています。ですから、その時にヤコブが試練を経て 天の祝福の基盤を築いた後に故郷を訪ねて行き、兄のエサウを迎えたように、統一教会も既成教会と再び相まみえなければならないのです。そうするために、これからさまざまな行事をたくさんするでしょう。民族と出会わなければならないこの道、特に青年たちとたくさん出会わなければならないこの道を中心として本格的な作戦を展開しようと思います。


皆さん!今年の標語は「全面的進撃」です。進撃よりは前進としましょう。進撃だと、あまりに 過激すぎるように見えませんか?ですから、「全面的な前進」と考 えます。


この「全面的前進」という標語の下に活動するためには、第一は内的整備、第二は目標意識の確立、 第三には敗者の結果を体価しなければなりません。我々は以上の三つを備えて必ず勝利しなければな りません。


内容を整備して前進するにあたって、無謀に行動しないようにしなければなりません。そして、 怨讐を推し量って、知って、作を立てるにおいて、夜も昼もその環境を選り分けて取り組めば、必ずや勝利するはずです。

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