全面的な進撃をしよう

(S) 01/01/1968


From Today's World Japan 517 and 518


一九六八年一月一日(第一回「真の神の日」)

韓国前本部教会

文鮮明先生み言選集第十九巻


天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」のみ言の中に、「第四十四回『真の神の日の訓読のみ言と神様王権即位式のみ言を添付し、先生の全体生涯路程を中心とする教材·教本を代表した全体のみ言を続けて伝えます」という一文があります。第四十四回「真の神の日」(天基二年天暦一月一日=二0-1年陽暦二月三日)に訓読された一み言とは、第一回「真の神の日」(一九六八年一月一日)に語られたみ言「全面的な進撃をしよう」です。このみ言の全文は文鮮 明先生み言選集第十九巻に収められています。以下はそのみ言を翻訳し整理したものです。今回はその前編を紹介します。

(文責·編集部)



第一次七年路程が終わったら、第二次七年路程を再び行かなければならないというみ言は何度も聞いたはずです。


今この瞬間は、今まで待ち焦がれてきた所望を遂げるために血のにじむ闘いを1してきた第一次七年路程とは違い、時代的な違いによって、使命的な分担において格段に違った様相を帯びる第二次七年路程を出発する時です。


第一次七年路程についての悔恨


ここに集まった我々はすでにみ旨を知った人々です。み旨のために生命をささげることを覚悟し、闘いの路程を歩んできた人々です。それゆえ皆さんは今年も神様の血と肉の因縁をもって、この時代的な使命に責任を負うと神様の前で誓った自分たちであることをさらに自覚しなければなりません。また、過去のことを教訓として、み旨の前に新しく決意する

心が大きくならなければなりません。


我々はこの七年路程に、六千年の罪悪歴史を終結させようとしてこられた神様のみ旨があったことを知っています。また、二千年前のイエス様以後、キリスト教が血を流しながら殉教の祭壇を築いてきて残された摂理の因縁を終結させるために苦労してきたという事実も知っています。


イエス様と聖霊はもちろんのこと、古来よりみ旨のためにこの地に来ては一時の恨を残したままサタン世界を心でのみ踏みつけ、み旨を立てて誓いながら犠牲の立場、あるいは死の立場に進んでいった幾多の先知先烈たちがいるということも知っています。彼らは皆、この七年の大患難を最後の決定的な時期として待望してきたのです。


このように歴史の要求は一時代と一基点に集中し、サタンと神様との天下分け目の決戦を提示してきました。それでは、この闘いを集結させる使命に責任を負って出てこなければならない責任者が誰かというと、この地上に住む多くの人々ではありません。韓国に住む三千万民族全部でもありません。彼らが誰かということは、世界の人類も知らず、この大韓民国の三千万民族も知りません。


この民族の中から追われ、追い回されてきた統一の群れが、これほど重大な責任を負っているという事実を、世の中の人々は知りません。しかし神様はご存じなので、今まで我々と共に険しい道を開拓なさり、同調してくださるのです。


このような事実を考えるとき、これは我々だけが持った特権であり、 我々だけが持つことができる誇りです。歴史過程において、これを感じることができる甲斐ある期間が七年路程だったという事実を、我々はよく知っています。


このような七年路程だったので、先生は皆さん各自が神様の前に忠孝の道理を尽くさなければならないということを、 時間があるたびに強調してきたのです。我々は忠孝の道理を立てるとき、栄光の勝利の立場、あるいは華やかな立場で忠孝の道理を立てようとは約束していません。血と涙と死が交差する立場、誰も願わない最後の峠道で七年路程を行こうと誓っ

てきたのです。涙が出れば、もっと凄惨(せいさん)な涙を流そうと覚悟し、死の道に直面させられれば、かつて誰一人抱くことができなかった歴史的な恨みを抱こうと覚悟しながら七年を手探りで進んできましたが、その道を回顧してみると、涙のにじむ事情が多かったのです。


他人には到底理解できない道を我々は歩いてきました。しかし、我々が受けてきた悲しみよりは、我々を導いてくださりながら内外の道を開拓するために苦労してこられた神様の悲しみのほうがもっと大きいという事実を考えるとき、過去の責任を果たし切れなかった我々の立場がどれほど恥ずかしく畏れ多い立場であるかを、もう一度感じなければなりません。


だからといって、神様を悲しませてきた事実によって、いまだ、この民族全体が神様の前に導かれてきたわけではありませんし、ましてや、この世界が天の圏内に入ってくるようになったわけではありません。


それゆえ我々はこの時点でもう一度、襟を正して、この民族と世界人類の前に再び第二次七年路程を設定しなければなりません。こう考えると、皆さんは再び神様を奉じ侍って苦労の道を再出発しなければならない立場にいるのです。これが悔しさと無念さと慣怒の事実であることを知らなければなりません。


六千年の苦労の道も長くて戦煙するほど残酷な道でしたが、今日、この七年路程の倒れてしまうほどの蕩減の峠道で苦労してこられた神様のご苦労がさらに大きかったという事実を恥ずかしく思わなければなりません。さらには、第一次七年路程によって摂理を終結させられずに民族的な恨を持ったままで再び第二次七年路程を歩むようになった事実を、我々は厳粛な心情で悔い改めなければなりません。


これから新年には、自分ができていない責任を再度整備して、新しく始まる第二次七年路程ではお父様の前に甲斐のある祭物をささげようと、心の中で誓う皆さんになるように願う次第です。


第一次七年路程の意義


過ぎ去った第一次七年路程は、先生の二十一年路程の終局に備えるためにあったということを皆さんは知っています。過去の七年路程において皆さんは個人として参加しましたが、世界史的な意義から見ると、歴史的な数多くの人間たちを代表して参加していたのです。その期間内で皆さんがささげた精誠は決して無駄にはならないでしょう。これは千秋万代に地の

因縁として残されることであり、天上へ行っては数多くの善良な霊たちが賛辞をささげることができる基盤になるでしょう。こういう期間は地球上に二度と来ないでしょう。


正に何分か前 に過ぎ去った一九六七年でその時期が締め切られたという事実を考えさせられるときに、皆さんはみ旨のために真なる心情であらゆる至誠を尽くさなければなりません。


歴史が負っている恨を知るようになれば痛憤する事実ではありますが、それは仕方ないことであり過ぎ去った時代の事情になってしまいました。その歴史の恨を解くために三千里半島で統一の旗印を掲げてきた我々は、今まで迫害と非難の矢を受けながら歩んできました。しかし、我々は進んできた歩みをまだ止めていません。追われ、追い回されても、自分を内的

に成長させると同時に、外的に整備するにおいて怠けたりしませんでした。


それによってこれからは大韓の三千里半島のどこに行っても、統一教会が行く道を阻む者はいなくなるでしょう。いかなる銃剣をもってしても阻むことのできない基準を立てなければならないという決心が、天的な基準で見るときに、このようにものすごい勝利をもたらしてきたのです。このような条件を立てたゆえに、それを中心にして新しい歴史を創造することができたのです。


我々はこのような諸事実に対し感謝しながら、過ぎし日の辛かったその道もやり甲斐を見いだししながら受け持ってきましたが、これからは残っている内的な分野のために民族全体を懸けながら整備しなければなりません。この民族を整備して新しい世界に向けて出発しなければならない使命が皆さんにあるのであり、皆さんがこの使命を完遂するようにさせなければならない使命が先生にあるという事実を、我々皆が肝に銘じなければなりません。


それでは今年において我々はどんな道を行かなければならないのかというと、これが新年初頭から全国と全世界に散らばっている統一教会の信徒たちに勧告しなければならない課題であるのです。今年は平和を先導する全面的な攻勢に出よう、すなわち「全面的な進撃をしよう」という標語を中心として第二次七年路程を出発しようというのです。


第一次七年路程では一年目(一九六〇年)の標語は「生涯中、最大の実績を残す年となるようにしよう」でした。二年日は「父の代身者となろう」であり、三年目は「見せてあげて誇り得る者となろう」であり、その次の四年目は勝利的主管者となろう」でした。


このような一連の標語を再び考えてみるとき、その内容はどういう内容ですか?「生涯中、最大の実績を残す年となるようにしよう」というのはどういう意味ですか? 人間はサタン世界に生きているので、蕩減の因縁を備えてサタン世界の前に分別される立場に立って歴史的な全ての罪悪を湯減復帰して勝利しようということ、すなわち個人復帰をしようということです。それが人間の所望です。個人復帰をすることによって神様の息子、娘になって、神様の代わりにサタンを審判することができる権威を持った子女になろうというのです。


その次は何かというと、「見せてあげて誇り得る者となろう」です。


これは神様の子女たる姿をこの地上で実践して、実体的に見せてやろうということです。個人的に、家庭的に、民族的に、国家的に見せてやろうということです。その次には、個人から国家の段階に至るまで勝利的な主管圏を備えて勝利的な主管者になろうというもの

でした。それが七年間の目的でした。


全面的進撃のための準備


今年は「全面的な進撃をしよう」という標語を掲げて活動しなければなりません。このときに問題となるのは、どうすれば統一教会の食口全体が一人残らず、昼夜を分かたず活動できるかということです。休まずに活動するためには、どうすべきでしょうか? 先に内的整備を堅固にしなければなりません。皆さんが活動するときは目標がなければなりません。そうするためにはその目標を自ら果たすように、内的な全ての事情を整備しておかなければなりません。皆さんは教会活動をする人々なので、全面的な進撃をするためには全国の統一教会が抱えている全般的な分野における内的な整備を急がなければならないというのです。


個人の内的整備をするためには、個人の信仰を中心として見るとき、み言に対して神様の前に認められる自分自身にならなければなりません。実体においても神様の前に認められる自分自身にならなければならず、心情を中心としても多くの人々の生命に責任を負い、そこから新しい繁殖を起こすことができる能動的な力を持っていなければなりません。


それゆえ、各個人がみ旨を中心として活動するためには内的整備をしなければなりません。完全に備えて、神様がごらんになって「正しい」と言ってくださることができる基準を持たなければなりませ。そのためには 「原理」 のみ言を勉強しなければなりません。もちろん、第一次七年路程において正常な道を歩んできた統一教会の食口なら、原理試験に合格していなければならないでしょう。


皆さんはみ言に無条件についていく人になってはいけません。まずみ言を通して主体性を備えた実体、すなわちみ言の主体となり創造できる人格を備えなければなりません。


ところで、今まで統一教会で「原理」のみ言を勉強する人々を見ると、心情的基準や人格的基準を取り戻せずに、み言だけで働き動く人が多いのです。これではいけないのです。み言を学んだら、 そのみ言を自分の言葉にして吐露できなければなりません。「原理」を語るのですが、その「原理」がどこかの先生が教えてくれた「原理」としてではなく、自分の骨と肉を通じて生命の因縁を備えた立場で語らなければなりません。そういう本然の主体性を持って語ることができる人にならなくては、そのみ言に因縁づけられた人々が自分とは何の関係もなくなるというのです。それゆえ、み言を中心とした実体的な人格を完成しなければ

ならないというのです。


それでは人格を完成するためには、どうしなければならないのかというと、神様の公認を受けなければなりません。神様の公認を受けるためには、必ずサタンと対決して勝利しなければなりません。


それでは、み言によって実体的な人格を備えた後に残った問題は何かというと、サタンを屈伏させることです。それでは、サタンをどこで屈伏させるのでしょうか自分が住んでいる家や、自分が活動する職場で屈伏させるのではありません。一国の最高の死が宿る立場でサタンと最後の天下分け目の大決戦をして屈伏させなければなりません。それも、個人を讒訴するサタンではなく、国家的に讒訴するサタンを屈伏させなければなりません。そうしてこそ神様の息子、娘になることができるのです。


なぜならば、イエス様がこの地へ来られる時には個人的な立場で来られたのではなく、国家を捜し立てるために来られたためです。したがって、イエス様が残した恨を蕩減復帰しなければならない立場にいる我々は、国家的基準にいるサタンと対決している途中で十字架で亡くなられたイエス様の恨を解いてさしあげなければならなを解いてさしあげなければならないのです。そうできなければ国家的権威を代身することができる立場、すなわち復活したイエス様の実体を代身する立場に立つことができないのです。ですから、サタンを審判しうる権威を備えるためには、最高の国家的な試練の途上で全てを処理していかなければならないのです。


このような摂理の内容があったために、今まで統一教会が歩んできながら国家的に反対を受けたのです。宗教界ではもちろんのこと、家庭と社会と国家においてまで迫害を受けなくては、国家的に勝利した人格的な価値を持つことができないのです。それゆえに、神様

は我々が行く道に多くの試練があるようになさったわけです。


こういう観点から見ると、真理だけ持っていてはならないのです。それゆえ、み言を語るには真理と一体となって語らなければなりません。み言に引っ張り回されるのではなく、み言を支配しなければならないというのです。そして、神様のみ言をサタンにも、「正

しい」と公認させることができなければなりません。そのためには、み言でサタンを屈伏させることができる実証的な条件を持っていなければなりません。


内的整備をせよ


それでは、実証的な条件を持つためにはどうしなければならないかというと、サタンの侵犯は神様の心情を蹂躙するところから出発したので、サタンを屈伏させて審判することができる第一の基準は、神様の心情を復活させることです。すなわち、神様の心情を再び誘発させるところから勝利の基盤が用意されるということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ終わりの日には、み言審判、人格審判、心情審判があるのです。


そのみ言と人格と心情が審判の基準なのですが、その基準がどの段階でなければならないのかというと、アダムとエバが堕落する前の段階の基準以上の位置に上らなければなりません。そうでなければ、み言を取り戻したという立場で勝利の旗印を掲げて現れることができないのです。そのみ言と実体を成し遂げたという位置にも立つことができないのであり、また、み言の実体である神様の前に召命された者として神様の心情を受け継いだという立場に立つことができないというのです。その基準はアダムとエバが堕落する前の段階よりもっと次元の高い段階で決定されなければならないのです。


それゆえ統一教会では、完成時代の神様の心情を教えてあげるのです。アダムとエバは長成期完成級で堕落する時に神様の心情を推し量ることができませんでしたが、我々統一教会では完成時代において神様の小情を教えてきました。完成を中心とした神様のみ旨がどうであるかということを教えてきました。


それゆえ、その基準以上の位置に立たなくては、サタンがアダムとエバを堕落させたその基準を清算することができないために、皆さんがそういう立場に出ていかなければならないのです。


ところで、この世界人類について見てみると、今までそういう立場に立った人が一人もいなかったというのです。その立場に我々が出ていこうというのです。ですから、統一教会が持っているみ言は特権的なみ言です。統一教会のみ言を通した実践は特権的な実践なのです。ここで結ばれた心情の因縁は、歴史上になかった、天地を連結することができ、神様の心情とも連結されうるものであることを知らなければなりません。言い換えると、失ってしまったアダムとエバの心情基準より高い心情から新しい世界が出発しなければならないというのです。これが統一教会の信徒たちが目標としていく基準であるということを知らなけ

ればなりません。


こういう観点で見ると、皆さんは各自、内的整備を完結しなければなりません。これができているのかどうかが問題です。できていなければ、いかなる方法によってでも完結された結果の立場に立つように努力しなければなりません。


本来はこのような立場に立脚して、きょうから総進軍をしなければならないのです。しかし、内的整備ができていなくては、どんなに進軍するとしても勝利の結果をもたらすことができず、また、敗者の悲哀を免れることができないのです。それゆえに休まずに活動

しようとするなら、これを裏づけてくれることができる内的整備が必要だというのです。


目標意識を確立せよ


その次には目標意識が明確でなければなりません。内的整備がどんなに完結されたといっても、目標なしにまごまごしてはいけないのです。明らかな目標を立て、その目標が志向する道がどうであり、また、目標が成し遂げられれば、その価値がどういうものかということを確実に知らなければなりません。


すでに一九六八年から統一教会の信徒たちは全面的な前進をしなければならない状況に直面しています。一つの明らかな目標を中心として進撃しなければなりません。


これから統一教会が行かなければならない目標は宗教界になるかもしれません。統一教会は一般の既成教会を通して越えていかなければならないために、現在のキリスト教を踏み越えていかなければなりません。そして、 どうすべきかというと、大韓民国、倍達(ペダル:韓民族の別称)民族全体を神様の前に復帰しなければなりません。このような使命が我々に背負わされているということを、 皆さんは明確に知らなければなりません。


この目標を達成するために食べて寝て活動するという目標意識が徹頭徹尾、確立されていてこそ、成果を期待することができるのです。目標意識を徹頭徹尾持って、どれほど精誠を込めながら努力するのかによって成果が期待できるのです。しかし、無条件に努力しても役に立ちません。内的整備をもっと堅固にしてから精誠を込めながら努力しなければなりません。


イエス様がゲッセマネの園を越えてカルバリ山上に向かって行かれた行路を、我々は忘れてはなりません。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と祈られたイエス様と共に、寸分たりとも疑わない心で「私の思いで

はなく、お父様のみ旨のとおりになさってください」と言える心が皆さんの内心に確立されていなければなりません。


お父様のみ旨を中心として目標に向かって進むにおいては、ゴルゴタの丘を登って行かれたイエス様の心情を抱いて行かなければなりません。イエス様はユダヤの国とユダヤ教団を忘れようにも忘れることができませんでした。また、愛するダビデの子孫であるヨセフの家庭を忘れることができず、自分に従ってきた数多くの群衆を忘れることができませんでした。


このように、全ての思いを自分のためではなくイスラエルを中心としてなさってきたイエス様の心を、我々は模範としなければなりません。そのようなイエス様の心を中心として目標を遂行すれば、怨讐たちがどんなに迫害し、どんなに難しい道にぶつかっても、皆さんはその目標を遂行することができるのです。


今年からは我々が行かなければならない分野が変わりました。国家的な使命も果たさなければならず、氏族的な使命も果たさなければなりません。こういう観点から見るとき、我々が目標にしなければならないのは何なのかというと、大韓民国を神様の前に復帰することです。今、大韓民国は、共産治下の北朝鮮によって南侵の機会を狙われているという状況に置

かれています。それゆえに我々は、内外で全ての情勢に立脚して神様が願われる摂理と結びつけてこれを蕩減しておいて、そこで勝利の基準を立てなければなりません。


それに関する詳細な問題は今後、別途に指示します。


それゆえ我々は、大韓民国をどのように神様の前に復帰するのかという目標を中心として進まなければなりません。イエス様がユダヤの国を救うために命を懸けて闘ったのと同じように、我々も大韓民国を救うために命を懸けて闘わなければなりません。この国がどこに行くのかを神様を代身して凝視しながら、怨讐たちが出没する根拠地を必ずや暴かなければな

りません。しかし、この世的な方法で進んではなりません。


統一教会が取る作戦と方法は別にあります。涙と血と汗を流しながら打たれて得てきて、踏まれながら得るのが我々の作戦と方法です。その作戦の結果、我々は敗者の悲しい立場を免れたのです。皆さんはすでにこれを実践して勝利の結果をもたらした体験をしたので、こういう作戦を休まずに展開しなければなりません。時間を争って大韓民国を救うために闘っ

ていかなければなりません。そうするためには我々がしなければならない責任分野がどれほど多いのか、体が百万、千万あっても足りないということを感じなければなりません。