2000年4月15日のメッセージ

2000年4月15日


指導者が全体を管理するためにはある1つの専門分野だけ集中するよりもすべての面で普遍的に全般的に総てを知らなければいけません。全般的に普遍性を維持しなければいけないためにある1つの専門性を維持するのが難しくなります。


ところで指導者が専門分野の範囲を広げ始めれば周辺にいる人たちはその指導者を理解できないこともあります。 周辺にいる者は専門分野以外を理解できないからであります。 ゆえに上の人がどのような次元で仕事をしているのかわからないにともあります。そのような時、周辺にいる人たちは専門分野以外のことを学習して、 または何も関与しないほうが良いときもあります。


よく知りもしないで自分の立場で見解を持って指導者に助言することや他の分野に対して批判をすることは正しい方法ではありません。 総てのことには過程があり大部分の人たちは結果だけ見るのが好きで、その結果だけ考えようとします。 例を挙げればスポーツに関して結果だけを見るのであって過程を見ることではありません。


ところである結果の後では他人にはわからない血と汗の過程があるのが当然であります。 その過程を知らないのに結論だけ考えて評価をする場合がたくさんあります。


人生をいきながらよく見えるのどかな天候だけあるのではありません。 雨が降るときもあり、暴風が吹き付けるときもあり、曲がりくねった風が吹くこともあります。 じめじめした天気や冷え冷えとした天候の時もあります。人生の過程で総てのことが私たちに必要であります。 難しい過程を乗り越えて得た結果が私たちにより大きな遣り甲斐を抱かせてくれるのであります。


いい指導者になろうと思えば打算的であってはいけません。ある境地において無条件でなければいけない場合があります。 条件があってはいけません。 条件がなく歩くことのできる道がなければいけません。人が総て99%が条件があったとしてもそのことが人生において、程よく見えたとしても無条件に自分自身を捧げることができなければいけません。 何も願うことがなく死の道も歩くことができなければいけません。 そうすればすばらしい指導者になることができます。このような指導者が尊敬を受けなければいけません。これが最高に難しい道であるからです。 これが自分に対して1番難しい峠であるからです。


ここで決意をしなければいけません。これができなければいい指導者になることはできません。そうでない人が全体を見ればその団体は不幸になります。 これは天下が立証し、歴史が立証し、神様が願われる摂理の道であり摂理の路程であります。


全体のために絶対性を強調するならば死ぬこともそれに対して絶対性ではないですか。 命を捨てることも絶対性ではないですか。それ以外は絶対性ではありません。総てがうそであります。 完成した人間ではありません。個体ではありません。完成された個体の道に行くためには死ぬことのできる道に行かなければ行けません。天が必要であればそのような男性たちが必要であって他の人たちがなぜ必要ですか。 そのような人たちが父母様の周りにたくさんいればどれほど良いでしょうか。


世の中では死ぬ覚悟をしてでも良くできるか、できないかであって、ご都合主義であってそれでよくできると思いますか?とんでもありません。 自ら間違ったことがないと思う人たちは悪い人たちです。 間違ったことがない人は世の中にいません。 総てを知っている人間もこの世の中にはいません。 間違ったことがないという人たちは許しが好きでしょう。 人は許せないとしながら自分は許しを願うそれを当然であると考える人間たちは理想世界ではいなくならなければいけません。そうでなければ理想世界の出発は話にもなりません。


アメリカで開拓に行くのですが総ての家族を小さなワゴンに乗せていくと考えてください。 家族総てが各々する仕事があるではないですか。 お父さんがワゴンを置いていく道を探すならばお母さんはそのワゴンを取り囲んで焚き火をして子供たちを食べさせて世話をしなければいけないではないですか。 子供たちはお母さんを助けなければいけないし、なぜならば目的地があるからです。 そのようにして何人かの人が過ぎてゆく道は自然によってすぐに覆ってしまわれます。森の中を通るにしても1度2度人が通ったとして道ができるのではありません。 何回も人が通れば草が踏まれて道ができるのであります。道を作る程度成そうとすれば多くの時間がかかります。土の道で舗装がなされていない道です。 舗装道路まで作ろうとすれば多くの人が死ななければいけません。道を十分に見つけ出して舗装道路を造るまでは多くの人が死にます。


時間が切迫するならばそれに対する危険も比例的に高くなり、 低くはなりません。 私たちが生きている間に舗装道路を見ることができると思いますか?かろうじて道路だけでも成功であります。 かろうじて小道だけでもなされれば成功であります。見る人がいますからまた行ってまた行くのであります。 馬車に乗ってくる人たちを引っ張ってあがっていきますから。 飛行機に乗っていく時に黒雲がかかれば地上が見えないでしょう。 地上に道を造ることが結論であれば仕方がありません。その飛行機から誰かが落ちて道を探し出さなければいけません。


人が生まれて1度死ぬのですが嘘をつくことはできません。 生きて責任を果たすことができなければ死んでも責任を持たなければいけません。 永遠の愛の世界で生きるためには生きていたとしても死んでいたとしても責任を持たなければいけません。


生きて自分自身の名誉と対面を守ろうとすることは意味がありません。そのようなものたちは時間が経過すれば歴史が無慈悲に踏んでしまうでしょう。


人になぜ山に登るのかと質問すれば山があるからであるというではないですか。難しいこともできると思うからするのではないですか。することは簡単でありますか?そのような峠を自ら越えていくことができれば自分自身で主管できる可能性も生じ条件にでもなるのであって、 そうではなく神様がなぜ助けてくれますか。なぜ自分しか知らない人間たちに仕事を任せますか。 神様が馬鹿であり不足であると無意識でずるがしこくて浅ましいですか。 そのような者たちこそ神様を侮辱する人であります。


どれほど人のことを考え、人のために生きましたか。 どれほど人のために生きようと自分自身を押してきましたか。このことのためにどんな死を経験しましたか。 人のために死の道を歩いていますか。 戦争では降伏しなければ敵を殺すしかありません。どれほど犠牲になりますか。どれほど人のために生きましたか。 自分自身が難しいときむしろ人に教訓を与えて生きてきましたか。 そのために生きることを探し出そうとどれほど苦労しましたか。どれほどもがきましたか。 どれほど多くに血を流し汗を流し涙を流してみましたか。 悪くならないでおこうとするならば苦労しなければいけません。


開放されるためには骨と肉が痛くても永遠に忘れないように学ばなければいけません考えが複雑に考える人であればあるほど苦痛がひどければ学ぶことが多いです。その苦痛を通じて十分に学ぶことができます。 その苦痛を通じて私を探すことができます。 人は苦痛を感じればより人のために愛するようになります。


共存するためにはお互いために生きなければいけないしみ旨をとも持っていなければいけません。他のことを持って共存するこにとはできません。そうでなければ戦わなければいけないし、戦争をしなければいけないです。 キリスト教の人たちは怠情です。なぜかわかりますか?イエス様は教会を建てず、 弟子たちが建ててそうです。 ゆえにキリスト教の人たちは大部分が怠けています。 考えと生活を見れば不偏的に怠けています。


愛の中に独善性があると思いますか?独善性があるとするならばそのことは自らをもってするのであります。 相手を考え相手のために自分自身を犠牲にすれば愛には独善性がありえません。 愛に独善性があるということは善の行動であって犠牲ではありません。そのことは善行にしかすぎません。


本来許しは悔いること、 悔い改めが先行されなければいけません。万民の前に自ら自身の間違いをありのまま告げることができたならばすぐに許しを請うこともできるでし9io0-をほうこくすることによってすぐに許しがなされるのであります。


無条件ゆえに堕落が生じたのであります。 無条件の愛が理想でありますが、反対の経路を通れば蕩減復帰がなされます。ゆえに条件的蕩減復帰をするのであります。 無条件に向かう条件をたてれば無条件から生じた条件を消すことができます。 理想世界での無条件から生じた条件を消すということはその道しかありません。駆け足をすればゴールに近付けば近づくほどつらくなります。


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