2000年4月16日のメッセージ

2000年4月16日


戦争が最後の手段であるように人に助けを要請することも最後の手段であると考えなければいけません。これが私たちの人生哲学であると考えなければいけません。


人に助けを要請するということは最後の手段であります。そのように良くできる仕事がなく、 また仕事が良くでき、仕事が成功したとしても人に与える余波が良くありません。


周囲の人たちに簡単にできる道を見せてあげていいことは1つもありません。近く周辺にいる人であればあるほど、自分が見本を見せることが責任者の責任であります。


責任者が難しく苦痛であったとしても一生懸命に働く姿を見せてあげれば、それがその人たちに対しての願わしいことであり、後になってもいいことであります。


仕事を簡単にしてしまってはいけません。


無理な目標を立てる理由がそこにあります。


それは仕方がありません。責任者が難しくすることをともに仕事をする人たちがみれば一生懸命にします。 責任者が苦労する姿を見なくては共に仕事をする人たちが気持ちを正して考えを同じくしようとしません。


人間は簡単で楽な考えをしようとします。この世の中では喜びを便宜に楽に、簡単に得ようとします。 ゆえに人は楽な道に行こうとします。 それでは良いことは一つもありません。助けがない仕事は疲れてしまいますが、その道が正しければ仕方がないではないですか。 その道しかなければそのようにしなければいけないのであってどうしますか。


誰もがそうです。 その道は難しく疲れるでしよう。本当に露骨的に体がずきずきします。1日でも体がずきずきしない日がありません。頭が痛く指が痛く足が振るえお尻が痛くなります。 最後の日を待っているのであります。 希望がありますが自分がこれを成功裏に終わらせれば気分はどうであるか、そのことのためにするのであります。 ある時は1人で笑わなければいけないし自分を慰めなければいけないのですから。 慰労をしなければいけないし、慰安を与えなければいけないのですから、そのような考えをしてみるのです。 どれほど気分がいいか、どれほど気持ちが軽いかそのことだけしんじていくのです。


ある時は無知識馬鹿のようにならなければいけません。有知識考えてはじめれば難しいです。人がこれから立場が安定して音楽だけできるようになります。


共に仕事をする人たち何人かが選択した道を共に歩くことも時間がかかります。


ところである人たちはただでできると思いますか。その仕事をする人たちを無視しカラカイあざけ殴り怒らせ審判するのです。


ゆえにこの世の中では生きていくのが難しいのです。 時間が過ぎれば過ぎるほど忍耐の限界があるために多くの人たちは何かを願い我慢するのであります。 総ての人間がそうです。 願いがあるために我慢するのです。待つことがあって我慢するのです。 我慢は待つことです。


指導者が好きな人は自らの仕事を責任を持って自分自身で悟ってする人です。そのような人たちは人に対して頼ろうとしません。 そのような人たちに期待することは人に対してあるのではなくあるみ旨を持って目的感を持っているのであります。 自分自身がそのことを完全に信じ願うためにそのことのために自分自身を惜しまず投入しようとそのような意欲がそのような関係の中で生じてくるのであります。


ゆえにそのような理想がなければいけません。ゆえに理想を持って生活する人たちはそれが他の人と違います。 世の中の人たちと宗教生活するひとたちが違う点がそこにあります。


世俗的な人間たちは他の人に頼ろうとし、 宗教人たちは目的感を持って人間の生活を超越し肉身を超越して活きます。 私はこのことを願います。 私が誰かに願ってこのことをするのではありません。それは絶対に事実ではありません。ために生きる者たちは絶対に人間に願うことはありません。そのようにできる人が多ければ多いほど私たちが早く発展するのであります。


考えてください。 そうすれば私たちの会社が発展し、よくなります。 ある目的感があれば責任意識が生じるのであります。 自分の目的感は自ら作らなければいけません。 自分自身の永遠のために、永遠の愛のために、神様の絶対的な愛のために、その目的感を作らなければいけません。 それが難しいのです。