2000年5月13日のメッセージ

私たちがしなければならない仕事は大変多いですが、体がつらいときとのようにしなければいけませんか。それも死を覚悟してしなければいけません。体がつらいときの基準が大切です。 どれくらい体が痛いときに痛いということができるのか。 痛みの程度は人によって違いますが、しなければいけない仕事があるときには体が痛いということできる基準が人と違わなければいけません。 体がつらくても続けて仕事をしてみると抵抗力が生じ、 だんだん自分自身が強くなることを感じるでしょう。


人は死ねば審判台に上って審判を受けます。 その時に1番いい言い訳が何か知っていますか?それは仕事をして死ぬことであります。仕事を終わらせることができずに死んだときそれが永遠の言い訳になります。イエス様もそうではなかったですか?稼業すべて完遂できなかったとしてもその道を歩いて死ぬときにそのことが1番の言い訳になります。審判台においては他の言い訳は通じないでしょう。仕事をするときには死ぬ覚悟を持つことがいいです。


自分自身の永遠のためにこのように考えることが最も賢明なことです。 選択することのできる選択権は善と悪を持って与えられるものであります。ひとつの道を選び自らを修正し完璧になるために努力しなければいけません。このことは理解できるし受け入れることはできますが、それ以外においては許しを受けることはできないでしょう。


最近MTVを見ればイメージを中心として放映するために音楽の水準がとても低くなっています。 このことが世の中の最高の基準になれば問題です。MTVは責任を持ちません。人間すべてが倣慢ではありません。個人的に十分なそうと努力する人がいます。 最後に彼らが残るものになり、倣慢な人たちは消えていく者たちになります。 どんどん音楽の水準が低くなっています。 MTVが音楽放送ではなく一般のテレビ番組になりつつあります。 MTVにおいては音楽が中心にならなければいけないのですがイメージを中心として放映するがゆえに音楽の水準がどんどん落ちています。


意識がある間は現実がどんなに難しくても自分自身がする仕事以外は他のことを考えることができません。ある声が聞こえても自分自身の仕事を放棄することはできません。仕事をなす過程においては、バカという声を聞いても悪いことではありません。結果を見せてあげればいいです。 故に愚鈍でなければ大きな仕事をなすことはできません。 自分自身が出来が良いと考える人たちから無知であるといわれたとしても、そのことを褒め言葉として受け止めることできる余裕がなければいけません。人が私を見て何と言ったとしても馬鹿のようにいきて私を見てその人たちが笑えばいいのです。


人はだれしも失敗するときがあります。 しかしそれを通じて一生涯に関する教訓を得、 発展の契機になれば許しを受けることができます。 そのことを1段階上がってそれを主管し使うことができれば後悔はしません。それが発展することのできる動機になります。その様な次元で完成がなされていきます。 死ぬときまで完成の過程は持続されるのであります。


最後まで放棄せず続けることが完成されることであってどの様にして死なずに完成したと人に言うことができますか?ゆえに死ぬ時まですべてを犠牲にしながらみ旨を成し遂げようとすることが大切なことであります。


正直に話をしますが統一教会で重視しますが人間同士で生きていますが神様とともに生きる心を持ってまた代身の存在を立てて、そのような愛を成し遂げようというのであります。 それをある面からいうと人類歴史は不祥事で始まりそれゆえにこのような条件を持って理想世界がなされるというのです。 それが善と悪を選択しなさいということであります。 善を選択すれば選択権がなくなります。 善を選択すれば自分自身がなくなります。 選択権がなくなるということです。故に神様が不幸の神様、 苦痛の神様になられるのであります。それが統一教会の基本理念であり根本原理であります。 それを十分にできなければ他の条件が生じてきます。 自分自身も知らない間にその様な条件が生じるときもあります。ゆえに根本が大切です。 原則が大切です。 原則を知らなければ自分自身も分からず失敗して条件に引っかかるようになります。 根本も分からないのに変な失敗をすべてします。それから自分自身を保護するために自分自身に間違いはないと話します。 それゆえに死のうとすればいいです。


最近共にする人たちにあなたが何をしてもために生きて死ぬことができれば永遠に弁明ができると話しています。他の弁明は必要がなくなしてから死になさい、これであります。 そうすればその仕事を完成することができなくても弁明できます。 ゆえにイエス様は偉大です。 イエス様は自分の宿命をすべて完成することができなかったというではないですか。 自信がなければむしろ死ぬという心を持つことができれば頭がいい賢明なことであります。 そのことがある聖書に出てくるヘビよりも頭のいいことであります。 そうでなければ次の世代 3世がその仕事をしなければいけません。 男であれば難しい環境で苦労したとしても勝たなければいけないという信念がなければいけません。 男性性相がそのようなものであります。男性であれば戦って勝つという概念が私の受け持っている仕事の中で残っていなければいけません。降伏してはいけない放棄してはいけない最後まで戦わなければいけない。 この考えがなければいけません。


自分自身信じなければいけません。これが男性の行く道です。 妥協ではありません。 妥協は瞬間であって最後には勝たなければいけません。戦って勝たなければいけません。 相手を降伏させなければいけません。しかし最近の子供たちはそれがありません。 普通の次元で妥協しようとします。 しかし妥協は作戦上必要であるために戦略的にするのであります。 勝つために妥協して恩讐を降伏させるのが目的であります。妥協は作戦です。 段階的なことであります。 計画であります。 そのようにするためにばかにならなければいけません。今は長生期であるために馬鹿のように生きなければいけません。 理想世界であっても発展期には忙しく生きなければいけません。 最善を尽くして自分自身を犠牲にしながら生きなければいけないのですが、そのような状況においては本当に気が狂った人のように生きなければいけません。そうでなければ何にもできません。


自分自身の最高をどの様にして探しますか?話にもなりません。探すことができません。話だけでなされることはひとつもありません。信仰基台の上に行動が従って実態基台が従わなければ何もできません。上部構造から下部構造まで行動し連結されなければいけません。言葉では死ぬと覚悟したとしても辛いと休んでいてはいけません。本当に自分自身がために生きるとするならばつらいとしてそれがどうですか。辛ければより死ねばいいです。 むしろ最後までして死ぬことがいいです。どっちみち死ぬのですから私が話すように1度してみようとしながら男性らしい男性になる道であります。自ら自身が大切であると人であればあるほど長生きしていいことはありません。 することもできないのにそのように考えながら長く生きて何をしますか?十分になしたとしても最高にできるところまでして死ななければいけないのに、そうでない人たちがどれほど情けないですか。


いつも私がまず初め、 より一生懸命しなければいけません。 まず仕事ををともにする人たちに愛を見せなければいけないし、彼らのために死ぬことができなければいけません。 真の愛は自ら探さなければいけないのであって、だれかが与えることはできません。誰かが代わりに与えることもありません。過程期においてかわりに与えることもできますが結論的にだれも代わりに与えることができません。


成約時代において完成を探さなければいけません。誰かが完成したとしてもそれを消化できなければいけません。神様が創造された後見てすべていいとされアダムとエバに被造物を主管しなさいと主管権を下さったのですがアダムとエバはそれを消化できましたか?受ける者が終わりを出さなければいけません。 受ける者が消化できなければいけません。そのことは私自身が知っています。 消化できないとき与えても受けることができません。 自分自身も分からないのにそれをどのようにして受けることができますか?みずからの限界も分からないのにどのようにして完成しますか?


完成することのできる道はただひとつ自分自身の限界を知らなければいけません。お父様が自己主管を完成する前に、 天宙主管を願うな!と語られたみ言葉があります。 自分自身を知らなければいけません。 そうでなければ絶対に主管はありえません。 何をもって自分自身を絶対主管しますか。まず自分自身の限界を知りために死ぬことしかありません。 ために死ぬことが優先であって、ために生きることが優先ではありません。 最後によく死ぬにとが完成であります。 お父様が復帰摂理時代に蕩減復帰路程に責任を持ち生きられなければいけませんが子供たちは理想を探さなければいけないですから死んでもいいです。 理想を探すことのできる蕩減条件が成立されているために死ぬことが優先であります。それでもなされるかなされないかであります。


歌を歌い芸術を作るのも難しいのに人間たちが芸術を作ることは非常に難しいです。 より生きるために何を教え何を残すことができますか。 統一教会の2世3世たちにこの世にあるいい学校を出てそれぐらいでいいとそのように教えてそれがいいですか?私はそのような統一教会員にはなりたくありません。私から人間的にそのように考えることができますがどのようにして世の中を変えることができますか。


私が知っている人たちの前に共に仕事をする人の前に仕事をして死ぬのが美しいのであります。 理想的なことが好きであります。 最高にできなかったとしても行く道はあるかなければいけないでしょう。 それをして死ぬことができればどうでしょうか。いいです。 大丈夫です。 私は本当にそのようにして考えます。


私は正直仕事終わらせたく人に勝ちたいのであって死にたくはありません。おかしな人になりました。本当にバカのように笑って死にたくないと考えながら生きています。 朝起きたとき死という感覚がしますが風呂に入り少し良くなればただ笑う人になりました。1日だけ生きるかげろうのようになってしまいました。


今すぐによければ次には考えない人になってしまいました。 ある面考えればそれがむしろいいです。いま話す言葉、今している仕事をすればいいというのですがそれが私が通ってきた過程であります。


他の人が自分自身を愛すると考えれば絶対にいけません。 不足なこと感じなければいけません。 完成を探すことのできる道はまず自分自身の不足を感じ、人のために与える道しかありません。他の道はありません。まず私が不足であると完全に感じなければいけません。重要なことのためにはすべてを与えてもいいです。自分自身が不足であることを知り最後までために生きようと言う心だけ持てば自らが重要であるという心を永遠に持つことができます。 そのような心がなくしては真の愛がありません。 あればそれは全く嘘であります。これが人間の限界であります。


人間は死ぬときになれば限界に到達するようになっています。ゆえに肉身がなくなるのであります。より以上生きていてもいいことがないために永遠に生きるために死ななければいけないのです。そうでなければこれからより生きなければいけない人たちが障害物になります。ために生きなければいけない人たちに障害物になります。 心配する時間があれば何でもするのがいいです。 それが私の人生哲学であります。


私は機械であるとしながら人の僕になれば神様の心を理解できます。ゆえにヨハネの福音書13章にイエス様も弟子の足を洗ったではないですか。十分僕の役割をするのも難しいです。忙しいではないですか。共に仕事をする人たちにどんなにつらくてもする仕事があるではないかとお互い笑うときがあります。どんなにつらくても朝起きれば何をしなければいけないのかを知り、する仕事があることが仕事がないときよりも幸せなことです。 選択権を持ってみても仕事がないことよりも仕事がある方がより幸せなことです。


男性に対し見ることはより大切であると女性に対しては聞くことが大切であります。 2つの中でひとつなければいけません。 それが基本であります。 ゆえに男性は個体になるのであります。 まず誰よりも対象としてきくことが好きなのであります。 神様は人間を反対に作っておきました。 ないことが優先でありますが男性と女性において神様は対象ではないですか。


ゆえにそれを分離するためには反対になされるのであります。それゆえに神様が僕であります。 映画を見ても面白くなければ主題曲サウンドがより良いです。 このようにするよりも個性を生かすために死ねばいいではないですか。私が決意をしてするのですが何故放棄しますか?理由もなく誘惑もありません。


私が決意したためにしなければいけません。するなと誘惑できません。早く死んだとしても決意したためにします。どんなにつらくても起きてやります。 今日はこのことをしなければいけないと自分自身言い聞かせながら生きなければいけません。勝たなければいけません。 私に1番大切なことは生きることではなく勝つことです。生と死が絶対的であれば生も大切でありますが私にとっては勝つことがより大切なことです。生よりも勝つことがより大切なことです。 生と死が絶対的であれば私は幸福に生きることができません。勝つために死ぬことが生きて降伏するよりも良いです。


開拓の概念をなぜ男性に与えたのかわかりますか。ないことを見ようと与えたのであります。 見ることができないことを探しなさいと与えたのであります。ゆえにそこにある私に刺激を与えるのであります。 1度でもより見なければいけないし語ったことをより実践できます。人はだれもが善と悪の要素を持っています。 自分は善であり人は悪であるとすれば問題になります。神様もそのようにすることができないでいるのに自分自身がそうしながら神様の代身とすれば話にもなりません。 自分自身をたたいて悪いことは何1つありません。いたければいけほど今はどうであっても明日いいことが起こるかもしれないではないですか。 それが蕩減条件であります。


蕩減条件を行動をもって、ある結実や結果を探すために今日いうことはありません。 明日があるだけであります。 人間は死にたくなく、とても生きたがり、生きて自らの栄光と完成をみたがる動物であります。 それが堕落した人間の未練であります。どんなに完成したとしてもそれは逆説的であります。 堕落した後に完成しなければいけない責任を負っている人は何でもあでもありません。そのことが完ペきな無機です。 完ぺきの前には何でもありません。ないことを作ることは簡単であります。知ることを作ることがより難しいことです。私が死ななければいけないですから。


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