2000年5月28日のメッセージ

統一教会がこれから反動を変えようとすれば生存性からでなければいけません。 今は私たちの信仰の終わりが真の愛ではなく生存性という感じを受けることもあります。 このようになれば世の中と変わることはひとつもありません。動物世界と変わるものもひとつもありません。


人間としての役割を果たす機能はすべて発揮できますが、しなければいけない責任をせず生存するだけで終わってしまえばこれは動物の水準になってしまいます。 生存には自我があるのであり、愛のためにあるのではないではないですか。


自分自身を脱ぐことができない生活をまだ普遍的にしていれば発展することができず退歩します。 恩讐を愛することは言葉では簡単ですが恩讐を許し愛することが真の愛と同じぐらい難しいです。 それよりもより難しいと考える人が普通ですがそれほど難しいです。 同じエネルギーが必要です。ゆえにそのことを克服しなければいけません。完全に最後まで反対の道にいかなければいけません。そこでもう1度帰ってきて無を作って反対に引っ張っていかなければいけないのですから時間が2倍かかります。


2倍以上かかるでしょう。十分すれば1度にすることができるのですが、1度にする愛も難しいことですが反対に行ってもう1度正反対の方向に引っ張っていくことを考えてみてください。恩讐を忘れ理解しようと努力し許し愛するということをすればどれほど多くの時間を消耗するのかわかりますか。3倍以上の時間を消耗します。1度にできることのできることを行ったり来たりしながら無駄な時間をすべて消耗し、ゆえに疲れます。その様にしなければ辛いことが何がありますか。しかし難しいことがあってもたかが自らの職業でしょう。


それは誰もがすることでありますから難しいと考えることができません。個人の欲求や目的がありますから高い目標を立てればそこに従う犠牲が高い目標を立てれば当然来るのであります。 それは当然であると考えなければいけません。 そのような世の中になればそんなに難しくないでしょう。 誰もがその様に生きようと努力すれば横にいる人たちから恵みを受けることができますから私だけではなくすべてがその様にして生きているなと感じればそこで同士意識が生じてきてそこで慰安を受けるのです。 そこで1人ではないことを感じるのです。


物質的な祝福やそれに関連した祝福は受けないでおこうとするのがいいです。 その祝福に頼るとしないほうがいいです。 祝福たくさん受ければ受けるほど不幸になります。 危険なことであります。 それが好きではいけません。まず心が弱くなり方向性がなくなり生活のバランスがなくなり倣慢になりやすいです。


生活をバランスよく持つためにはすべてのことによく与え、良く受けなければいけません。 努力を通して代価が来るのが正常でありバランス的なことであります。 それが優先であって祝福は優先ではありません。


人間に万物を主管しろと語られたではないですか。 ゆえに責任を持ったとしてもそのような生活が正常的なことであって祝福の生活が正常ではありません。それは非正常的なことです。 そのことがどこかわからず不足だったり壊れてしまったためにその様に祝福されるのであってそうでなければそのことのために生活すること自体が祝福なのであります。


病気になった人に薬を与えお金を一文与えることに頼ればいけません。それを好きになれば乞食になってしまいます。また祝福をたくさん受ければ方向性を喪失します。 まずそのような祝福がとても多くなれば雑な考えをたくさんします。 そうでなければ段階的に一つ一つしますが1度になされれば簡単に使ってしまおうとするのであります。 これあれって開かれはじめればどのようにして受け持つことができるのか対策もなく開かれていくのです。 そうすれば本当にさまよってしまいます。 祝福も大事に使えば祝福になります。一般的に人はお金が少し生じれば簡単に使うようになるではないですか。


理想世界でも王権があります。 しかし理想世界での王は万民に対して本当に神経を使わなければいけないので万民の僕であります。 自分だけを考える人たちは理想世界で王になることはできません。 自分だけを考える人たちは良心が不良な人たちです。 その様に生きていいことはひとつもないと誰もが考えることができますが倣慢になり始めればそれも難しいです。


倣慢も習慣になりやすいです。 まず自分に来る喜びが直線的であるためにそうなります。 そのようなよくない習慣を育て中毒になり始めればよくありません。馬鹿になり結局は滅びてしまいます。 十分に出来る事がひとつもなくなります。 ゆえに誰もが倣慢を嫌いにならなければいけないし避けようとしなければいけません。できるだけ倣慢をみず感じないでおこうとしなければいけません。 その様な心があればすぐに感じてきます。 感じれば刺激がひどくなります。その刺激は衝撃的です。 快楽的になることもあります。それを主管できなければいけません。微慢な中毒性を避けることが人生をもっとも賢く生きる道であります。


称賛を受けることを好きになれば問題です。 称賛を受けることを好きな人は微慢の中毒にかかった人です。ゆえに十分仕事をしません。十分な仕事をなすためには多くの犠牲があり長い時間が必要です。


ところで倣慢を中心としていきれば人気作戦を使い称賛を受けることを願うようになりますがどのようにして仕事を十分しますか。 どんなこともバタバタして称賛を受けようとし、待遇を受けようとします。 倣慢に中毒になればそのような現象が現れます。そのような人は闘いません。倣慢な人は戦いをしません。闘いをしようとしないのではなく闘いができないのです。馬鹿のようにを十分するものが戦いをするのです。


白人たちはこまごましいことに神経をたくさん使います。ゆえに説明することに対し理解できなければ悩み始めます。1人でそれを解こうと悩んでできなければ3,000砲で出ていくこともあるでしょう。 白人の習性をして彼らに合うように説明してあげて正しく導いてあげる人が私たちの教会にも必要であります。 そうですから最後には東洋人が世界を主導するようになっています。 白人たちの習性を良い悪いという前に彼らを理解し彼らに合うように導いていくのが東洋人の使命です。 白人の中には知的な人がいるのかと思えば感情的な人たちもいます。両方の人がすべて私たちに必要です。


時と場所に従って違っています。私たちの周辺でそのような人たちを管理するのは指導者たちの責任であるということができます。 指導者は専門家を見ることのできる専門性があり人材を適材適所に使うすべを知らなければいけません。


ゆえに変化する時間と空間と雰囲気に合わせることができなければいけません。 雰囲気に合わせてあげればいい結果が出てくるのであります。 あいまいで難しいときであればあるほど1番いい結論は死のうとするのがいいのです。 そうではなく自分なりにできがいいと考えてみれば終わりがなくなります。 いつもお父様のみ言葉を自ら実践しようとしなければいけません。人がする前にしようとすれば勝つことができます。人がすべてした次にすればある歳月にどのようにして勝つことができますか。人がしないときにすれば勝ちます。そうすれば勝つことのできる確率が高まるのであります。


統一教会たちは多人種とともに仕事をする環境を好きにならなければいけません。 同じ人種同士仕事をすることを面白くないと考えなければいけません。 多人種とともに仕事をしてみれば頭が痛い時も多いです。ゆえに時間がたくさんかかります。 ベルベディアスタジオにはいろんな人種たちが共に生きることのできる訓練所と同じところであります。 彼ら感じることがすべて違うために学ぶことがとても多いです。


ひとこと言ったとしてもお互い三等分させて3つの方向で語らなければいけないのでお互いに良い訓練になります。ひとつの場所で座って一言語ったとしても3つに分かれ分離して話さなければいけないので良い訓練になります。このように訓練すれば私たちがこれから中国人を理解することができるし勝つことができます。中国人は韓国人と日本人の両国からきてプラスとマイナスの中間に立って世界を横領しようと争う人たちであります。 一日じっと座った白人たちのようにできがいいとして黒人たちのように力も誇り東洋人であるために絶対性を強調します。 そうですから韓国人や日本人たちが嫌いであります。 韓国人や日本人たちのように見えますが完全に他の行動するために完全に他の国の人たちのように見えます。


最後に中国人を料理するのが大切です。しかしどのようにして料理することができますか。 中国人はまず倣慢です。中国人たちには黒人と白人と黄色人種の性格がすべてあるために中国人たちの核心を知るためには各人種の性格を知ることができれば十分に分析ができます。中国人はあるときには黒人の極があるときは白人の極があるときは黄色人種の性格がでてきます。 この3つの人種の性格を混合されたのが中国人の性格です。 ゆえに中間のものたちです。 中国人を知るためにはまず白人と黒人の性格を知らなければいけません。 さまざまな人種の性格がすべて必要です。 どのようにしてこの人たちを本当に愛しどのようにしてひとつの目的に向かって仕事をすることができるのかというのが私たちの宿題ではないですか。言葉だけではなく実際そのようにしなければいけないではないですか。


歌手の生活は奴隷生活と同じです。 声を十分に作ることはスポーツよりも難しいです。 これは持久力や力だけでなされることではありません。正直運動するときも少しのテクニックを持って1等か2等かわかれます。これはその鋭利な面がリズムの範囲内においての鋭敏とは次元が違います。 歌手の声の声量に振動調節して個々人に感動を与えなければいけないのであります。 それが簡単ではありません。


スポーツのように目を閉じて打ち込むことを見せてあげることはむしろ簡単でありますが目を閉じて鑑賞するものたちに感動を与えることは簡単ではありません。人がお父様が語られたときにあるときは目を閉じてじっと聞きます。 み言葉を聞き恵みを受けるということが簡単ではありません。十分話せば恵みが来るようにメロディーと声量と震動の上り下りと流れを十分にしたときに恵みがきます。 十分単語を書き込んで文書を作ればその文章に恵みが来るように歌もその流れが十分に連結されれば恵みを受けるのであります。それができなければ恵みがありません。 前後が合わないことを話すことと同じであります。 雑談を聴くのと同じであります。 歌の流れも連結されれば恵みが来るのであります。


私たちは世の中の人がするように仕事をすることができません。私たちが最後になって悩むことはそのことです。私たちのする仕事が教会の名前を持ってするのであるならば最後には世の中の人が分かるようになるではないですか。 私たちのする仕事がお父様が追求する価値観と合わないときには世の中から批判を受けることは確かなことであります。世の中の人たちのようにお金を稼ぐために私たちは仕事をすることができません。 お父様の対面を考えなければいけないし統一教会の名前を考えなければいけません。自分の体面を守りながら世の中に影響を与えることができなければいけないのであります。 最低同等の立場では分からなくても世の中に世話をかける立場においては仕事をすることができません。統一

教会員を尊く優先的に考えなければいけません。 統一教会員は大部分が祝福を受け世の中の人たちよりもより恵みを受けているではないですか。


事業の最高の目的はまずは自立であります。 自ら自立をしてじたい運営をして事業を拡張するにおいては原理的な方法をすることと世俗的な方法との2つがあります。世俗的にする方法よりも原理的にする方法がより難しいです。 お父様が願われるその理想感をもってすることがより難しいです。難しいですが原理的な方法はよくすることができます。 始めるときはもちろん難しいです。ほとんど10倍は難しいでしょう。 しかしそれを耐えて超えて凌駕するようになればやりがいが生じそれだけ価値を感じることができます。 それを我慢することができず事業は事業のまま世の中のようにしなければいけないと教会内でもご飯を食べるように話をする人たちがいるのであります。 そのようにして自ら自立した人がいますか。 そのような言葉を語る人たちは世の中を知らず弱く人に頼ろうとする存在がいると考えてそうです。


人間はたいがい簡単に平面的に分析します。 殺したい人を殺すことができないためによりよくしなければいけないのです。 むしろ私が死ぬ方がいいと考えながらよりうまくしなければいけないと考えるのであります。 殺したい人たちをより生かすためによりうまくしなければいけないのです。そのような考えをするときには行きたくない時もあるのです。 信じることのできるものを残すことができないときには生きたがあるのです。 それが逆説的なことです。 その様になればそれが条件です。誰も上がっていきたい人はいつもふりをするではないですか。しかし十分に上がっていこうとする人は本当に正直で純粋です。 そのような人は一言いえば10の言葉を理解します。一言いえば最低2つ理解します。そのようなことばをもって続けて考えるため最後にはたくさん知ります。 そのような人たちは何かが違います。 早くあがりたがる野心があるせっかちな人たちは真似をしてそのようなふりをします。


そうであればあるほど仕事が複雑になります。 そのことは泥棒が多ければ多いほど法律が複雑になるのと同じことです。


音楽家たちも欲望があるので自らが作った音楽で恵みを受けなければいけません。ゆえに一生懸命にして基本を高めなければいけません。 白人黒人東洋人たちの性格を見れば白人たちは頭に合わせようとし黒人たちは体のリズムに合わせようとし東洋人は霊的なことに合わせようとします。 ある面でみると黒人たちは怠けているように見えますが怠けているわけではありません。 輝くことをすることが好きです。


黒人たちが難しい仕事を1番しないでおこうとします。 その替わり黒人たちは続けてする持久力があります。持久力はありますがつらくしようとはせず余裕を持ってしようとします。 自分の体のリズムに合わせようとし無理をしないでおこうとします。 白人は自分の頭に合わせようとします。 東洋人たちは霊的なことに合わすようとするために神様をわからなくても大きな目標に考えを合わようとします。 ゆえに頭と体を合わせようとし頭が願うように体を合わせようとしてみれば黒人には負担になり最後には不平が出てきます。自らの器量を尽くしてしなければいけないのであって願うことは限界があります。個別的に考える次元においては主体と対象の関係においてなされる状況において愛を意識せずには最後には頭で考える白人たちが膨張力がより強く速度が速いために黒人たちがそこに合わせるのが無理になります。 すぐに成果を願えば黒人には負担になります。 黒人が限界の中で自らのできることが限界になってしようとするのですからそうなります。 時間に余裕を与えず自分自身の限界をすぐに広げようと要求すれば当然に無理があります。無理になればきずになり病気にかかります。 その様な次元で霊魂が願うことと、頭が願うこと、そして体が願うことが違います。ゆえに現実的に全体の秩序に合わせなければいけません。とても過度にいえばを全体的に不協的な波長が生じます。それが続けて連続されればその波長はひどくなり小さくなりません。その波長がひどくなればをつかむことができなくなり主管することができなくなります。


その様になれば非常対策を使っても主管することが難しくなります。非常対策の効率性があればいいですがなければすべて失ってしまいます。 その様になれば霊魂だけ残して心と体は死ぬ覚悟をしなければいけません。無理に生きることができないではないですか。その様になれば人を恨むようになり他の人たちの弁明と言い訳を予測して語らなければいけないのであります。


幼い子供たちのために良い歌詞を書いて、簡単に歌うことができるとたくさん作ればいいでしょう。 小さい子供たちに教えるのは簡単ではありません。 白人黒人東洋人たちがすべて人間であるためにすべて心情的ではありますが雰囲気が違い表現の仕方がすべて違います。


黒人たちは慶祝的であり歓喜的でありそこに感動を受けるのに対して白人もそのようなことがすべて好きですがそこに余裕を持ってある概念を持って正しい次元で先導する立場に立とうとします。それを白人に恵みを与えます。 東洋人は純粋に従っていきますが最後まで行くと心を持ってしようとします。


白人たちにある機会を与えた時に自分の願いを十分にするために頭をたくさん使います。 恵みを受ける期待も人種別に違わなければいけません。


各人種にたいするごとに主体観が違わなければいけません。 同じようにすることができません。すべて違います。それを受けとめることができなければいけません。ゆえにひとつの方向に引っ張っていかなければいけません。白人が東洋人になることはできません。すべて位置を守らなければいけません。 すべての位置を守ってひとつになってひとつの方向に行けばそれが理想的なことであります。


彼らが正常な役割をすることができないのに霊魂だけ引いていけば何をしますか。 それでは植物人間になってしまいます。正常な役割ができるように置いておかなければいけません。 黒人や白人たちを東洋人のようにすることができません。理想的にそのようになることができずそのようになってもいません。


蕩減復帰時代は無理矢理な時代であります。 ありえないことをしなければいけないために考えられない仕事をするのであります。それが不変であると考えてはいけません。それが基準ではありません。どんなことをしてもその個性を生かさなければいけません。白人たちは白人の個性を生かし、黒人たちは黒人たちの個性を生かし、東洋人も東洋人の個性を生かそうとバランスを合わせなければいけません。そしてひとつに集まるようにしてひとつの方向を探すようにしてあげ、そこで自らの価値を探すことができるようにしてあげなければいけません。そうでなければいけません。


どこか知らずで非正常的な現象がおきます。 それは正常ではないですからそうなります。 それが自然的なことではなく物理的なことも優先ではありません。 それがだめだからです。統一がそのような統一ではありません。 すべて段階的に3段階人種間の3分性が完成した段階で統合されることが理想的な統一の概念であり結果論です。自らの位置がなくしてひとつになることではありません。そうすれば地上で生きる人たちがすべて霊人体がさまよう結果になります。 そうすれば透明体になります。 人間が理想世界に入れば透明体になりますか。 そのように解釈するよりは最後まで一生懸命にして歴史を余裕を持って見つめるのがいいです。


いつかは結果ができるのが当然ですから。全体を統合するためには最後までより一生懸命しなければいけません。 そのような結論を持つようになったことは歴史を見て習うからです。 先輩たちが歴史上よくないことを作っておき後輩があのようにしないでおこうとするようになれば問題であります。 自分自身が正しいと決心したことは最後まで放棄してはいけません。そのことのためにより苦労しより難しく生きなければいけません。 ゆえに万物を開放しなければいけません。


昔8番目のアルバムに万物を開放しようという歌を1曲作りました。 白い壁に黒い点がホコリになれば黒い壁に白い点もホコリになる。 と歌っている曲であります。 後半には万物を開放しろという曲であります。


そのようにするために万物の霊長である私たちから堕落を分離しようとするのであります。 特にキリスト教を信者たちは闇や夜であるならばすべて悪いというではないですか。 それを聞くのが嫌でこの歌を作ったのであります。 人間たちが悪いことしてその様になったのであってなぜ夜が悪いですか。 なぜ闇が悪いですか。夜暗ければ寝ることができます。 暗い夜を探して休み暗ければ細胞が十分休むことができます。それは科学的なことであります。それは科学的に立証された現象です。 ところで暗くなれば無条件に悪いと考える人たちがいるのでこの曲を作りました。なぜ罪のない万物を恨みなぜ自然現象を恨むのかというのです。銃を持った強盗が悪いのであって銃が悪いのではないではないですか。そのことは考えられないおかしい思考法式です。 夜の天のホコリが星ではないですか。それがまさに黒い壁に白い点ではないですか。それはおかしなことです。 ゆえにそのことは二重人格者たちがする言葉であります。 深く考える仕事を始める立場においては夜がいいです。 昼になれば散漫になります。 ゆえに暗いときもいいときがあります。


イエス様が第二アダムとしてこられたとしたとしても西洋キリスト教文化圏の中にいる人たちはイエス様はアダムと比較することのできない素晴らしいお方であると認識するのですがそれは仕方がありません。聖書を白人が解釈して世界化させたためにそうです。 帝国主義がある宗教キリスト教を通じてたくさん入っていったのです。7、8年前にマンハッタンセンターでイエス様の肖像画をビデオで作ったときの結論もそれでありました。


西洋人がイエス様の名前にかこつけてキリスト教を利用して帝国主義の目標を成し遂げたのであります。 それゆえそのようにして語りその様に信じるのであります。 そうであるので白人たちが黒人たちをアフリカから連れてきて奴隷として使いました。ゆえに選択を受ける民族は白人であると信じたのであります。ゆえにその様に語るのであります。 西洋の食口たちもその様に見るということは白人たちが倣慢であるということ物語ります。 お父様のみ言葉を再臨主のみ言葉として受け入れたとしてもイエス様の偉大性を強調するということはそこに自らなりの考えがあるということです。 キリスト教の歴史は白人が握っていると考えているのでそうです。


ユダヤ人が失敗し白人たちがキリスト教を世界化させたとを考えているのでそうなのです。 ローマ時代を通じてキリスト教文化を東洋にも広めアフリカにも広めたではないですか。イエスを殺した白人たちがキリスト教は世界化させたことは事実です。ローマ時代にはイスラエルも白人たちの植民地ではなかったですか。しかし今は白人たちも自らの限界を感じているためにそのような現象もこれからは大きな問題になりません。 ある程度ロげんかをして論争しなければいけませんがその論そうを通じて彼らが限界を感じます。 そうでなければ武器を持ってする戦争でありますがそれを白人は願いません。 世俗的な世の中で生きている世の中の人の欲望には限界があります。


自分に被害が来ることはそれ以上をあがろうとせずそのままの状態を維持しようとします。 現状維持をしようとすることは限界を感じているということです。 ゆえに私たちが一生懸命すればするほど説得がより速くなるということです。 白人の世界にいま問題が多いではないですか。彼らが限界をたくさん感じるので妥協するのが早くなっています。 このような状況ではまず妥協がなされればいけないのであって完ぺきな状態では妥協することができません。妥協すればそこで説得が成し遂げられるのです。白人には説得よりも妥協が優先であります。 そうすれば他の心を持って新しい次元で新しい対話をしようとします。 本来白人優越主義者は頭が倣慢であります。倣慢をこれから家に置いて妥協しに来るときに新しいテーブルに他の倣慢を持ってはきません。戦争を避けようとする意識を持ってきます。ゆえに説得が可能です。


闘いが嫌いであるという心と戦わないでおこうという心を優先的に持っているために倣慢を家に置いてくるのであります。拷問を畳んでおいて妥協する人たちとはまず論争をしなければいけません。 妥協も1つの論争であります。 私はこのようにしたのですが、あなたはどのようにしますかと聞きながら現実の話をするのであります。一種の取引をするのであります。 取引は銃や刀を持たない戦いではないですか。 そのようにして妥協します。 例をあげれば南大門市場に行ってみれば取引をしてものを売り買いするではないですか。そのようなスタイルであります。 十分に知り南大門市場に行けばひったくられずものを安く買うことができますが十分に準備をせずいけばひったくられるではないですか。 ゆえにそれを整理しなければいけません。ものを売る市場の商人たちが卸売り業者や工場からそのものを持ってくるものたちはお互いが知っているものたちであるためにそのような売買は通じないためにそのようなことはしません。


ゆえにこれから道ばたの雑誌をニで雑商人がいなくなる時代になればそれがまさに理想世界の始まりであるということができるのです。


神様に祈祷するときは祈祷するその言葉を絶対信じなければいけません。 祈祷する言葉が自ら自身の心に触れる時には涙が流れるようになっています。 祈祷は自分自身の覚悟を語るのであります。 覚悟を語ったあとは実践しなければいけません。 最高の祈とうを実践した生活を一生涯しなければいけません。言葉で祈祷する時間があれば、その言葉を実践することがより大切なことであります。 男性が神様に何かをしようと報告し約束しようと祈祷することであってしてほしいという祈祷するのは恥ずかしいではないですか。男性がそのような祈祷をしようとするならばむしろ内侍になるのがいいです。約束をむやみにして実践できなければ約束したものが憎まれるではないですか。 約束したものが責任を持たなければいけません。神様に約束したことを一つ一つ守ってから新しい約束をするのがいいことであって、続けて約束だけして守ることができなければ、それが自分自身を憎むことになります。 大部分の人が人のために祈祷することは結局は人を通じて自ら願うこと成し遂げることができると信じてそのようにして祈祷するのです。


幼い子供たちが遊ぶのをじっと見れば大人がする行動がそのまま出てきます。 自分なりに個性が出ますがそれがとても尊いことのようです。すべての父母たちが子供たちを見て喜びを感じながら自分自身を見るのであります。 自分自身の純粋な面を見てもう1度再生することのできる機会であります。ゆえに子供たちが尊いのです。 自分の子供を見ながら私がもう1度生きればあのようにして生きなければいけないと思い、心の中で考えているのであります。 私たちも同じく子供たちのように生活をします。 子供たちは花のように規則的にご飯を食べて寝て生活するではないですか。 私たちもそのようにして生きなければいけないのですが、とても腐敗し堕落性本性があまりにもあるので不正や腐敗を片づけることなく今のように生きてしまいます。


主人になることが簡単であると思いますか。 それがいいと思う人たちは愚かな人たちであります。 正直ひとりで生きるアメリカ人たちを見てください。盗難防止のために警報装置を作って番犬にも気をつかい神経を使うにとがたくさんです。主人になることがいいのではありません。楽ではありません。主人になれば神経を使うことがとても多くなります。 むしろ乞食の生活の方がいいです。


学ぶときは乞食のように生きなければいけません。 主人になっては家を守ろうとするので学ぶことができません。本来は僕が家を守らなければいけないのですが、その様にできない主人が守らなければいけません。家を守ることが主人の仕事にならなければいけないのならば家の主人が犬と同じ役割をしなければいけません。アメリカ人がなぜ犬を好きなのかわかりますか。 アメリカ人が開拓をするときにオオカミのような猛獣たちから主人を保護するのが犬でありました。 自分たちを襲う猛獣たちに自分の命をかけることできる犬たちであったがゆえにアメリカ人は犬が好きです。


開拓主義思考法式でアメリカが建国された国であるために獣の世界において最高の愛を願う者が犬でありました。自分自身が定着するために犬の助けを得た多くの人間がいたために犬が他の動物よりもそのように偉大になりました。ゆえにアメリカ人はあるときは人間よりも犬が好きす。 それは明白な事実であります。復帰摂理の責任を持った人間たちが自分の責任を完遂することができなかった時この様な犬を無視するだけではなくこの様な犬の主人になることができません。 その様な者たちが教会の責任を持つようになればその組織は滅びてその組織は動物の王国になります。


理想世界の理念を持った指導者だったとしても今の世の中が理想的な環境でないために現実を知らなければいけません。指導者が感じる苦痛は一般個人が感じる苦痛とは次元が違わなければいけません。


いや普通の人が感じる苦痛とは関係が無いとしなければいけません。いつも1人でつらく受け持つことができなければいけません。 また指導者は自らが自分なりの能力を作らなければいけません。 武術を習うとしても自分なりの方法を作らなくては師範に勝つことができません。師範は自ら勝つことのできる方法をすべて教えることはしません。ひとつの能力でも残せば師範の立場をキープできるからです。 言葉がうまい人は多くても言葉なくして行動するのは難しいです。それが簡単ではありません。


できのいい人は多いです。問題は何をもってできがいいいのかが大切なにとです。 言葉だけできがいいのは重要ではありません。ニュースのような報道式にすることは社会問題の収拾しかできません。 人間の進歩的なことと理想追求することは芸術しかありません。理想はまず見えないために芸術は見えないことを見せることができなくてはいけません。聞かしてあげなければいけないのであります。最高の刺激を動員するためにはそれ以外のさまざまな万物を主管しなければいけないのであります。 それが最高の刺激でありますから。


万物を主管することのできる万物の主管性を見せてあげればそれが最高の刺激であります。 刺激がそこからくるのであります。 それ自体内にそれを追求するのかを見る術を知らなければいけません。物理的な方法よりも万物を通して存在する万物を持って被造物を持って存在物を持って形態を持って刺激を感じることを願います。


難しさを我慢して耐えれば必ずいいときがきます。 ある1つの峠を越えればその時から楽になります。 初期的な段階では耐えることが当然であります。 しかし愛は永遠ですから最後までその様にしていかなければいけないのです。 初期に1度通過したとして終わるのではありません。 それからが本当の始まりです。


その時から自らするだけなされるためにその次の段階がより大切です。 その次の段階から自らの行動から誓うことを努力して完成した次に長成期を超えていきその次に完成期を越えて行くことです。 このことを大きくみればそれが蘇生期でありその次の長成期、 完成期をへなければいけないのであります。 3段階を超えて帰一数である10数を経れば完成された人間になるということができます。


誰もが完成することが好きでありますが、ある程度は上がってきたと考えればあるほどより注意する方がいいです。いつも少し突きぬけるときであればあるほどもう1度私がなぜこのことをしているのか考えなければいけません。私が何をしようとするのか何なのかもう1度回顧して思い起こすことが当然であります。


ある家や教会や組織に新しい人が入ってくればそのことは吉報であり吉事です。 これは弁解できる条件になります。それを嫌いになり、妬めばそれはどにか精神が不足な人であります。 それを恐れ警戒意識を高める人は悪い人であります。 基本的な人間性を踏まえることが人間の役割を十ニ分にするのであります。そこには例外がありえません。そのようにすれば仕事において昔よりも良くなることができます。


十分賢くなることがどれほど難しいのかわかりますか。 相手がなく1人賢くすることはできません。 賢さは人を通して知るのであります。 そのようにしたとしても賢いという言葉を聞くのがいいことだけではありません。賢いという言葉を聞けば耐えることがなくそれが不安であります。 ゆえに称賛を受けることがいいのではありません。 賢いということはこれからより苦労をしなければいけないということであります。 だれも頼ってはいけません。 人が何といってもそれに神経を使わず、人と置かれた立場を比較してはいけません。そうすれば賢いという言葉が長く残るのであります。