2000年7月4日 信仰の道

2000年7月4日火曜日


自らがみ旨の道を知らなければいけません。 それが信仰の道であります。 信仰を通じて完成がなされます。その信仰の道は目的観がなくてはいけません。行く道がはっきりしなければいけません。 その道は命をかけていかなくてはいけません。 それがなければ信仰という言葉を語る資格がありません。 信仰生活をするためにはともに死ななければいけないのです。ともに死ぬときになされるのであります。 死ねば生きることができます。 死の峠を越えれば生の価値を知ります。 信仰生活をするとき仕方なくむやみに叩かれるようになっています。 自分自身に価値があり意味があればあるほどより強く打たれるようになっています。尽きることがなく打たれるようになっています。 それを耐えることができれば良いです。 そうでなければ死んでしまいます。


計略をはかり生き残る人は重要な人ではありません。計略をはかりその瞬間だけ避けたとしても最後には逃れることができません。間違いがあればいつか罰を受けます。 その罰を受けるのが良いです。 苦痛が従えば従うほど純粋になります。 この世の中を楽に生きようと考えれば人はより悪くなっていきます。 自分の問題点を自ら解消することができず、 苦労しなくても自分の思うがままに良いと考えてみてください。 そうすればぴょーんと飛んでいっても仕方がありません。


永遠を探すためには地獄のような生活をしているときでも、その問題を解決できないときには自分の仕事をもう1度考えてみて十分に回答が出るまで十分に考えなければいけないのです。 仕方がなしにそのようにしなければいけません。その過程を超えることができず振り切って出て行けば悲惨になります。 その問題を解消するために努力すればその過程が蕩減として成立され、生きる道が生じるのであります。


十分に心だけ押し固めればそれは決して悪いことではありません。そのようにすれば霊界が助けるでしょう。 生きている人もそのような人を好むのに霊界にいる人はいかばかりでしょうか。 霊界ではテレビを見るように私たちの生活を眺めているでしょう。 ビデオカメラを部屋に設置したそのようなシステムがあるでしょう。 そのように霊界では時空を超越して地上人を眺めているのにどこに行って隠れることができますか。門を閉めて見えないと思いますか?むしろ現して生きるのが良いです。


人はとても賢いと考えないほうが良いです。 そのような考えを感じるときごとに意識的に足らないように見せながら馬鹿なように生きるのが自分のためには良いです。人より少し出来が良いとして倣慢な人は為に生きることができません。自分が微慢であると知れば謙遜に生きようと本当に努力しなければいけません。主体性が強い人であればあるほど倣慢になりやすくそのような人はその人しか分かりません。自分の倣慢性を脱ぐことが出来れば為に生きることができます。自分を殺すためには自分が倣慢であると認めなければいけません。はっきりと知ればそれを殺そうとするのであります。 知れば殺すことが出来ます。 倣慢がなくなれば為に生きることができます。人のために生きる生活をするためには倣慢を殺さなければいけません。 私たちに残ることは苦労し犠牲になることしかありません。 私たちが苦労し犠牲になれば結局は私たちの子供に良いのであります。


十二分に人を助けようとすれば私たちの未来は確固であります。 頂上まで行こうとすれば未来を持って死ぬ覚悟をしなければいけません。死ぬまでするという心を持てば1次元高い永遠まで行くようになっています。その次元にあがっていけば永遠のために死ななければいけません。 死ぬ覚悟ですれば永遠を探すことが出来ます。 それが公式であります。 そうすれば自ら自身にいいのであります。 人のために与えれば与えるほど自分に悪いことは何もありません。為に与えることの出来る人たちがいなければいけません。自らが苦労し犠牲になりながら生きなければそのような人は生じません。 そのようなことが生じたとしてもまた人に与えながらまた人に与えながらまた私がすれば良いでしょう。 とすればすばらしい人になるのであります。それが個性であります。


自らの最高を探して全体のために与えれば信仰がなければいけません。何のためにするのかという概念があれば自分自身の最高を探すことが出来ます。 自らの最高は神様にあるためであります。 神様とともにするときだけその結果を知ることが出来ます。 自らの最高を探すことの出来る道はそれ以外にないためにつらく痛くても最善をすべて尽くしその道を行くことであります。辛ければ辛いほどその道を乗り越えれば勝利者になるのであります。 原理の予定論に出てくるように神様のみ旨に確信が来ればまずはしてみてから考えるのが良いです。 そうではなくいつも1つ1つ考えて行動すればとてつもない歳月がかかるでしょう。


男性にはとりあえず始めてみる面がなくてはいけません。むやみに始めるのではなく全体を考えなければいけません。 全体の為にという次元でまずは始めるのが良いです。始めなければその次の段階を感じることも出来ず、考えもすることが出来ません。


神様がある法廷があったとしても紙があればそれを記録として残すことが出来ます。 脚本を書くとき紙と鉛筆があれば出来るのと同じであります。 それが始めようとする人の心の状態と同じであります。 始めるときはすべて白紙と同じ状況であります。 もちろん責任感の為に責任を感じてすることであったとしても始めるときは白紙と同じであります。 どんなに白紙と同じ状態に処していたとしてもそれは個人の事情であって神様の事情ではありません。神様が願われれば倣慢にならず、 謙遜にそのみ旨受け止めなければいけません。 中心存在に自らを合わせなければいけません。そのためにはどんな対面も固執も捨てることが出来なければいけません。


勝つためには量、質、 速度が基本であります。 個人救援よりも全体救援の為の活動がより大切であります。勝つ目的は全体救援であります。 個人救援は自分の立場を維持しようということでありそれは救援であるということが出来ません。そうすれば悪化するのであっていいことは1つもありません。 いいときは遅滞することが出来ないのですが悪いときは方向を変えればいいのであって絶対に遅滞してはいけません。 自らのためにすることは遅滞現象であるということが出来ます。