2000年7月5日 位置と責任

2000年7月5日水曜日


人がある状況にあるとき、それを理解する過程があるためにそれを理解できない時、人はさ迷うでしょう。人によって責任が違いますが、そのことを単純に考えることができません。人は完成を探さなければいけませんが位置は違います。


恨ということは下のものが上の者を打つときに生じるのです。肉心を使い自らの立場も知らず、自分の完壁も知らない時限で上の人の代身が出来るということはおかしなことであります。その立場を原理的に見れば自分勝手になされるのではないではないですか。 民心がすなわち天心という言葉がありますが民心が常に天心ではありません。 アメリカのような最強の大国で豊かに生きながら従順に個人主義に没頭して自分の利益だけを追求する次元で民心が天心であるということが出来ません。


理想世界ではその言葉が可能であります。 理想世界では選挙のようなものもはっきり言って必要ではありません。本当の愛があれば譲歩することが出来ますから。


アメリカのような国でご父母様に従うということは個人的な次元で終わって成されるのではなく、摂理的な次元で始まり、締めくくらなければいけないのであります。


上の人に侍るということは意欲や言葉で成されるのではなく、十分に行動しなければいけません。統一教会で一番大事に考えることは家庭である為に真の家庭を放棄しては何も出来ることがないと考えて信仰生活をしなければいけません。